交易の実相

1686 ~ 1687 / 1729ページ
中津川の商人の中で生糸交易に参加した人で大黒屋日記に名前の記載されているのは数人である。その交易の実際についてみると、同日記同年一一月六日の項には「…神奈川交易糸直段引上げ 一箇詰江戸表ニて百三十両仕切之趣 右ニつき糸目百勿につき代金一両の相場にて 家内引糸持合六百勿有之候につき代金六両外ニ質流れ糸百六十勿にて一両二分に売払申候 前代未聞之相場ニて驚入候」とある。生糸が高価にうれて取引は成功していることがうかがわれる。
 万延元年(一八六〇)には、四月二二日の頃に「靖庵殿横浜より御取引につき金子二千四百両 馬荷一駄 才領兵助付添 帰村…(略)…絲直段売揚げも多分利得の趣 小判も三両二朱位に商ひ候やう御咄有之段」とあり、生糸売上げも多分の利得のあったこと、また開港場での小判の相場は三両二朱ぐらいに取引きでき、小判買いに狂奔するありさまも想像できる。
 こうしたスタートのよかった神奈川の生糸交易であったが同年一〇月次の様な記録がある。「十月十日…両人当<閏>三月廿一日中津川出立に而横浜交易所江絲商ニ罷出候処 最初は利分沢山ニ有之候得共 <分口銀>追々直下げニ相成 莫大之損分相懸り 夫故無拠長滞留ニ相成 止むを得ざる事、右に隨い 江戸表へも罷出てその欠合付候得共 分口銀漸く三十二匁位の処にて仕切り 始終の損分に相成り 依って思い切り(十月)五日江戸出立にて両人共無事帰宅」(大黒屋日記)これにて判るように急激な物価騰貴等により交易が挫折していくことがわかる。そして大黒屋日記からも横浜の生糸交易の記事はなくなるので、恐らくこの頃を機にして交易は終止符を打ったものと考えられる。