生糸交易は最初の滑り出しはよかったが、物価騰貴などで挫折することは前述した。更にもう一つの交易を困難にさせた理由があった。それは横浜在住の売込商人と悪質な外人交易商との結託によって、搾取されるような事件のあったことも見逃すことはできない。
中津川村弥兵衛、理助が、武蔵横浜本町一丁目売込商人日野屋真五右衛門とその支配人善兵衛・儀兵衛を相手どって、神奈川御奉行所へ「生糸被欺取候出入」として訴訟した。その諸記録が間修一氏(藤枝市在住)の手許に保存されており、これにより事件の様相を知ることができる。
この事件というのは、中津川の弥兵衛と理助が万延元年(一八六〇)七月中、横浜の生糸売込商人日野屋真五右衛門へ頼んでおいたところ、オランダ四番船スネルと取引が成立した。値段は糸一六〇目を一斤とし、一斤につき洋銀三七〇枚ととりきめ、糸三〇〇目一把にて四六二把半を日野屋を通し異人館へ持込んだ。立会で計って八五〇斤あったので、まず手付けとして代洋の内一四〇〇枚渡し改めて皆金で相渡すということであった。其の後約束を破り、その場逃れのことを言うので、糸はどうなったかと質すと、スネルが伊勢屋に借金があったので、そこへ五〇〇斤渡し、あと三五〇斤はスネルの土蔵にあるということであった。こうなっては致し方ないので糸を受取ろうとし、三五〇斤は受取ったが五〇〇斤はすでに転売されていたのでその代洋一八五〇枚を催促した。
しかし日野屋も運上所へ嘆願し、スネルも三〇〇枚渡し残一五〇〇枚はオランダ船入船の節渡すとの事、若し承知しなければスネルが帰国してしまえば取立てもできなくなるので、こういうことで済むようにとのことを弥兵衛に申込んだ。両者の対立は益々険悪となり運上所も日野屋の肩を持つようになったので、代金取立ての目ども立たない。また長逗留すれば費用もかさむ、従って訴訟に持ちこんだ。この訴えは横浜の名主らの仲裁で一一〇〇枚洋銀を受取って決裁することで示談が成立した。
横浜の生糸交易にいち早く目をつけ飛びこんでいき、またこうした理不尽な悪徳商人とねばり強く交渉し、訴訟にまで持ちこんだ中津川商人の商魂のたくましさにも深く感ずるものがある。