越後出兵と夫役

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慶応四年(一八六八)五月江戸開城も行われ関東及びその周辺では、局地戦が展開奥羽越列藩同盟が成立し、反政府行動のただならぬ形勢が感じられた。そして佐幕軍が北越から信濃へ侵入するとの風聞があった。これに対し尾張大納言が越後口へ進発することになった。美濃の諸領主もこれに力を合わせて討伐せよとの命令を受けた。苗木・岩村の諸領主もこれに同調をした。
 尾張領の出兵については、山村氏にも農兵役を出すよう命じてきた。そしてそれが各村へ割当てられた。湯舟沢村へは五月十八日二九人(木曽谷へは二〇〇人)を越後へ出すようにとの書状が届いた。村役人は農民の窮状から百姓には支度金もないので、少し日延べにしてもらいたいし人数も減らしてほしいとの意向を福島役所に伝えたが、出役の催促は大変厳しかった。従って村役人は百姓の説得に努力するが、一向に百姓側は納得せず二六日村方で話し合いの結果、農民側から三つの条件が出された。①一人につき支度金五両、②人数の半減、③六日限りで交代する。しかし②の条件は当然受容れられずついに役人側も二八日には庄屋・組頭・惣代に出頭するよう伝えてきた。その夜百姓を呼びに二回使いを出したが一人も集まらなかった。夜明け近くに組頭が軒別に廻ったが家族からは昨夜出ていって不在との返事、このことは早速馬籠に出張してきている役人に伝えられた。この頃妻籠からも木曽谷南部の百姓が一揆に参加し、落合、中津川に集結していることが伝った。