越後夫役に対して、前述した経過をへて五月二九日木曽谷中南部農民が一一五〇人、落合から中津川大橋までにたむろする事態が発生した。中津川代官・中津川宿役人らがやっとこれを取鎮めた。「夜明け前」(第二部第五章)は百姓一揆としてかなりくわしく筆を進めている。
この百姓一揆当日の状況について「大黒屋日記」には「(五月)廿九日 天キ快晴 (略)木曽谷中百姓壱騎(揆)密働隠り 宿方百姓始メ妻籠 三留野 野尻衆 在方蘭村 柿其 与川之外 在々不残 凡人数千百五拾人余 中津川宿端駒場入口大橋迠 誠に大群時の声上げ 落合与(より)中津川大橋迠大変之事ニ相成 御代官始メ并惣役人中揃方以差留メ申候様子 肥田九兵衛殿ニハ直様尾州表江御達しニ参り候様ニ噂承り申候 (五月)晦日 天キ快晴 (略)百姓一騎(揆) 今日ニ至り皆々中津川ニ逗留いたし居申候 (略)兵右衛門 勝七未ダ中津川ニ逗留 騒動ニ与御代官江御頼参り候様子承り申候」(続文献の旅木曽路)この一件については「越後表江御搔出相成候夫役之儀村々難澁申立尾州表江押出候節中津ニ而引留候節始末役人取斗方相記」、「年内諸用日記慶応四年正月吉日」(神坂・島崎家文書)にくわしい。
この事態の収拾に際して、木曽谷役人は早速説得のため来津した。中津川では代官をはじめ、小林安兵衛、小倉半之丞、市岡長右衛門らが引留め説得にあたった。中津川庄屋肥田九郎兵衛は、この様子を早速尾州表へ伝えることと、収拾策として夫役は尾州表から出すか、それとも金子拝借を内容とする嘆願をも兼ねて尾州表へ出向いた。