一揆の収拾

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一揆も落着き始めた六月朔日、肥田九郎兵衛宅に木曽谷の宿村役人が集り、市岡長右衛門、塚田弥右衛門の仲介で今回の夫役は危険な場所へは差出さないことを条件に、六月三日まで出役すること。一方借入金については庄屋・組頭が奔走して入手すること等で百姓も納得した。この旨を役人に伝えたところ、二日に野尻泊りで出発したいとの事であったので、この事を百姓にも伝え承知していた所へ、肥田九郎兵衛早追いにて帰り、木曽の夫役は解くという尾張表の意向を伝えた。従って夫役の件はここで一段落した。
 しかし後始末については、六月中旬頃から各村の関係者は福島の役所へ呼び出され、事件の究明が行われるようになった。一揆指導主謀者は勿論、事件に関係した中津川・落合の宿役人(中津川菅井嘉兵衛、肥田九郎兵衛、落合上田庄蔵)等も相ついで呼び出しを受けている(大黒屋日記)。取調べは指名召換の形で呼び出し、出頭に際しては村役人が付き添うようになっていた。特に問い質された点は、福島役所へ嘆願書を肥田九郎兵衛に頼んだ件、尾張表へ書面をもって出願に及んだこと、この願書を山口村で作成した様子だが、誰が出席したか、また中津川への押出しは誰の指令で動いたかの点であった。
 湯舟沢村の定右衛門の取調べについて問答式にみると、願書の件は、知らない。山口村へ出向いたのは、勝蔵。押出しの一件については、馬籠宿へ定出役に出ていたところ奥の村々から押出し、村々が参加しなければ大勢入り込んで家を潰すというので参加したと答えた。このことについて庄屋へ届出たかとの問いには内々隠れ参加した、と返事をしたので大変叱られ引取るようにといわれた。これは定右衛門取調べの内容である。
 これらの事から判断すると、この一件は木曽谷南部の村から起って、村々を巻きこみ尾張表へ出願に及ぼうとし、中津川まで押し出し止まった。そして尾張表への出願については、中津川宿の庄屋肥田九郎兵衛が引き受けた。しかも、木曽南部の村々が内密に糾合した形跡は十分認められ、木曽谷支配である山村氏を無視し直接尾張本拠に迫った点に時の流れを感ずると共に、山村氏の持つ二重性格のこの時機における苦しみも察せられる。新政府に解放を期待する百姓につぎつぎ襲いかかる夫役・こうした時点で百姓は蜂起したのであった。
 しかもこの一揆で仲間から犠牲者を出してはならない。このことは「大黒屋日記」に与川村の百姓七人が代官所へ呼び出されたが途中で逐電してしまったことでわかる。「年内諸用日記」にはその直後、与川村から急飛脚で一書を送り、その行方について探索されても、たとい知っていることがあっても、「一切不存」で押し通してもらいたいと申し入れている。どこの地の百姓一揆についても同じであるが、口を割らない農民の団結の強さを感ずる。