さきに慶応四年(一八六八)六月飛驒に高山県が設置され、梅村速水が知事となりその任に当った。しかし梅村県政に対し住民は不満をもち、明治二年(一八六九)二月知事排斥運動にまで高まり、下旬には暴動に発展した。梅村知事は当時京都にいたがその急を聞いて三月九日帰県し、益田郡萩原村に止宿した。その後のことについて「楠日記」には「同月(三月)十日県知事梅村萩原村ニ止宿ノ由ヲ聞キ暴民益々沸騰ス 県知事兵隊廿人ト遁逃し途中銃創ヲ負ヒ 暴民其後ヲ追ヒ藩内(苗木領)田瀬村ニ至ル、鎮撫ノタメ小池八郎・佐々木伝六・紀野亀五郎之ニ赴ク 小坂村(益田郡)ニテ高山県出張所監察司宮原大輔らニ逢ヒ右三人ハ同所ヨリ之レト高山ヘ罷出ヅ 同県県知事梅村事 当藩ヘ投セシ始末ヲ届出ヅ、又右県知事ハ上町庄屋方ニ休息セシメ医師山川白童、分部全庵、水野活介ニ命ジ治療セシム、此件ニ付棚橋亘理早駕籠ニテ京都ヘ出立報告セシム 但十七日ニ至リ帰藩」(御家譜下書古田孫六書写)とあり、田瀬村(福岡町田瀬)まで来て梅村知事は保護された。そして暴徒たちは苗木領の役人によって説諭され高山県へ帰った。
苗木遠山家では刑部官監察司の命により知事並びに兵士を城下雲林寺に移し厳重に警護した。一三日には梅村速水は知事を免ぜられ四月苗木遠山家の手によって監察司へ護送され、兵は高山県へ引渡された。この梅村騒動の話は恵那郡北部地区では今でも語りぐさとして言い伝えられている。