お札降りの背景

1696 ~ 1697 / 1729ページ
「えいじゃないか」の大衆混乱は誰かによって操作されたものであることは、心ある人たちには当初よりはっきりしていた。このお札祭りについては反幕兵士たちが計面的・組織に仕組んでおこした活動で幕府支配に終止符を打とうとする「世直し運動」であったと考える見解は古くからあった。この説の当否は別としても、この騒ぎを倒幕派が利用したことは事実であろう。
 民衆の一揆や打ちこわしと形態は変わるが、共通するエネルギーを持つこの運動の起った必然性についても、「おかげ参り」の伝統からきたものだとする見解や、それとは別に、中世終り頃より民衆のあいだに伝承されて来た世直し神としての弥勒仏が、この世にやってくるのだと信じる信仰の爆発とみる意見もある。
 こうした運動が反幕志士の組織的活動だとすると、この時期この地域で活動した勤王の志士の多くあったことを見逃すことができない。中でも文久年中、大井武並社神主の養子となった佐藤清臣は、常に勤王の事に心を寄せ活躍した。その後慶応元年(一八六五)信濃上諏訪神社に滞留した。しかし翌年幕府の忌諱(きい)にふれ一時各地を潜行し、その行動に不明の部分が多い。しかも職業的には神主で神札の入手には有利であった。さらにその神札が大神宮・津島社・秋葉社などと関連を考えると、こうした活動に関与したのではの疑念も起る。しかしあくまでも推察の域を出ない。