勘定所で調製された弘化四年(一八四七)から文久三年(一八六三)にいたる「御用金納帳」によってみると、納入者数は七〇余名をかぞえ、一人の調達金が一〇〇両以上の者が約三〇名となっており、何れも苗木領内の村方役人層である。
御用金調達をした村方上層部の農民に対しては、苗字・帯刀・上下御免など、或は士分・士格並に召抱えるという方法で恩典を与えることによって報いている。
Ⅸ-9 御用金納高
(弘化四~文久三)
また別の方法としては直接農民に割当てるという方法と、村から一定の利率を持って借用するという方法等があった。
苦しい財政をどう救済するか困難な問題であった。まず財政窮迫をみかねた福岡村の安保謙治が、慶応四年(一八六八)二月二三日言上書を提出し、元方・目付に対して建策した。その内容とするところは、財政救済の仕法を村方へ一任されるようという趣旨のものであった。
こうした建言もあったりして同年四月一五・一六日の両日領内の各庄屋・御用達・御用弁達は城郭外にあった領主の宅に招待されるという異例の措置がとられ、領主自ら一同に目通りがなされ、上京についての費用の捻出と仕法立について趣旨を述べた。同席した重役や財政担当者も補足説諭し全面的な協力を求めた。
ついで同年六月一七日には再度重役より村方庄屋・用達などに対し財政救済の方策を立てるように示達した。翌一八日町会所に集合した庄屋たちに、重役より長い間のご恩に答える時であるので格別に精を出してほしい、どうして凌いだらよいか協議してほしいと命じた。
これに対し村方庄屋たちは、七月三日協議した結果を五項目にまとめ藩庁に提出した。村方のこの五項目の要求は当然認めなければならなかった。一方庄屋・用達一同は仕法高四万余両の割付を決定した。その割付内訳は用達が八一二六両余・用弁が一〇一五七両余・領内村々へは半分余を占める二二三四七両余を割付した。
このようにして一時的には、当面必要とする財源確保はされたが、莫大な借財に対しては抜本的な救済対策とはならなかった。いずれにしても財政窮迫は累年の賦課となり農村農民の生活を苦しくさせ荒廃をまねく結果となる。