慶応四年(一八六八)八月一日、苗木町屋広小路・日比野村馬場・高山村高札場の三か所に「目安箱」を設置した。その趣意を記した建札には「(前略)旧習御一洗 御家政向十分御改政被遊度被思召 御領内之衆論公議を以て伏姦陰、悪を察し 嘉言良策は速に御採用之上 不易之御規律被為在 特下情閉塞之患を除き(略)」と民意を行政の上に反映したいという趣旨であった。しかしその反面には民衆の不満をやわらげようとする含みのあったことも容易に理解できる。建札には更に「毎月六ヶ度つゝ被開之」とあり毎月六度開いたとある。しかしその後は毎月五と一〇の日に開函することになった。
実際のこの目安箱が、行政上どのように利用され成果をあげたかについては不明である。しかし社会行政の変化の目まぐるしい中で、こうした時期に一つの行政対策としては意味のあったことであるが、こうした方法は摘発・密告等の重苦しい恐怖政治への不安も同時に含んでいたことも事実であった。