苗木藩の維新期の行政をみるとき、行政の基本的な政治理念並びに人材の育成等を考える上で、どうしてもその基盤となった日新館の存在を考えないわけにはいかない。
日新館の創設については、慶応四年(一八六八)にはいり学校設立の気運が高まり、八月一一日「仮学校」を「梛(なぎ)馬検所」(梛は地名で苗木城西・領主の馬場-調練場-のあった場所)に取決め、教授世話方として曽我多賀八(祐申)を任命し次のように令達した。「学校之儀者 年来御営立之御含被為仕候処 時未タ至ラス遷延星霜ヲ経候段 遺憾不少思召候 方今文物天下ニ開ヶ於朝廷モ大学寮ヲ被為興候程之事ニ而 生育之道此他ニ不可出殊ニ此頃一統ヨリ言上ノ旨趣モ有之 旁急速御取立可被遊候得共 先夫迄之処梛御検馬場ヲ以 仮ニ学校と被定候間 八歳以上並有志之輩寄集リ専ラ講習可被致候 教授世話方儀ハ曽我多賀八江被命候ニ付 委曲之儀ハ同人ヘ可被問合候」このようにして同一三日より講義がはじまった。
一方日新館の建設は三月頃より進められ、「同月(三月)七日 日新館御普請ニ付一統手伝ニ罷出候 此後棟上相済候迠手伝ニ出頭致シ候」とあるよう士族たちの手伝いですすめられた。
一二月五日日新館が落成したので、学神三神(八意思兼神、忌部広成・菅原道真)と国学四大人(荷田大人・岡部大人・本居大人・平田大人)と御神鏡を小栗主水宅より学校内へ引移して学校開きが終了した。そして一一日には日新館より本社へ遷宮し社号を弥広神社と呼んだ。ここに国学の四大人を祭祀すること等は、今後の苗木行政の将来を方向づけたとも考えられる。
一二月一五日には、知事・大少参事はじめ諸役員・士族一同、日新館において、次の箇条を天地神明に誓って守ることを約束した。
一 開闢以来ノ天恩ヲ仰キ復古維新ノ盛世ヲ楽ミ、大ニ尽忠ノ志ヲ興起スヘシ
一 祭政惟一ナルハ我皇国ノ大道ナリ、故ニ天神地祇ヲ敬祀シテ永ク懈ル事勿ルヘシ
一 民ハ国ノ至宝ナリ惨酷之ニ臨ム事ナク努テ撫恤ヲ加ヘ以テ好生至仁ノ聖化ニ浴セシムヘシ
一 公平廉直ヲ挙ケ偏執阿党ヲ黜ケ、上下心ヲ一ニシ教化洽ク布キ風俗ヲシテ敦厚ナラシメン事ヲ要ス
一 文武名ヲ異ニシテ其実ハ即一ナリ、宜シク国体名分ヲ炳ニシ気節ヲ養ヒ陋習ヲ破除スルヲ専要トナスベシ
「若シ此言ニ違フアラハ請フ忽チニ厳罰ヲ蒙ラン」とし、翌一六日には歩・卒一同にこの旨を布告した。これが苗木藩の行政の基本となって進められることになる。
一方学校では当初は「四書五経」・和漢の歴史等を教授していたが途中からこれをやめ、専ら国学を主として本居・平田等の語学者の著書を講究し、漢学は余暇にやるようになった。
[職員]文学教授=(主事)、試補・世話役(以上藩主より任命)、照名司、座席司、訂正扶読(以上はおもに出仕以上のもの、以下は主に部屋住ノモノ)、児童指揮、洒掃指揮、給事洒掃。
[生徒]最初は士分の子弟だけであったが、後には卒・足軽は勿論、平民の子弟でも詮議の上入学を許可した。入学に際しては総て洒掃の席に入り、給事、洒掃指揮と順次上進することが例であった。
[教授の方法]寺小屋式個人教授で、文学では扶読以上の者、筆学にては世話役以上のもの各自の席において教授を行った。
[試験]毎年二回行い、当日は藩主や大少参事の出席があり成績の優秀な者は書籍(主に平田家著述出版のもの)、筆硯、竹刀、木鎗等の賞与あり、また進級もその結果によるというふうであった。
[学神]本校の東南の一段と高い所に社殿を設け、前述した三神・四大人を祀り、これを弥広神社といった。毎朝登校の際に職員と生徒は必ずこれを参拝し、毎年春秋の二度盛大な祭典を行った。また校内の正位の場所に神座を設け毎月朔望念五の日には酒饌をあげ釈奠の儀にかえた。
以上が日新館の概要であるが、教育的内容も国学的色彩が濃く、国学による思想の統一化が進められていったことがうかがわれる。