家禄奉還・帰農

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明治三年(一八七〇)閏一〇月八日、正権大参事四名は藩知事に突然「謹テ藩知事公閣下ニ曰ス某等頑鈍至愚ノ質ヲ以テ昨年以来奏任ノ重職ヲ汚シ 藩制ヲ参判スト雖 未タ方寸の効ヲ見ス 日夜慨歎恐懼ノ至ニ堪ス 今ヤ朝廷命アリ藩制ヲ更新ス 宜シク速ニ管下ノ才俊ヲ擢抜シ其任ニ替ラシメ 某等怠惰ノ罪ヲ督シ 以テ衆望ニ副ラレンコトヲ誠惶頓首謹言」と一向に成果のあがらないことを理由に辞職請願を行った。
 そして翌九日には同四名の者藩知事に対し「…官禄ノ外世襲ノ恩禄頂戴罷在…右世禄永ク奉返上 各農籍ニ帰シ 聊カ国用ノ不足ヲ補ヒ藩債ヲ償ヒ軍費ニ備エ 闔藩一致旧習ヲ打破シ 朝意奉体ノ実績相顕候様 尽力仕度」と家禄奉還を願い出、奉還によって苦しい財政の助けにするよう願い出ていることである。勿論同時に帰農に復することも願いでた。ついで翌一〇日には少参事以下の士族卒一同同様の請願を行った。これを受けた知事はこの件を弁官に報告すると共に、その取扱いについて伺い出、この伺いは一〇日二八日「伺之通」と許可された。この様にして苗木藩内は他には例をみない様な変革がなされた。しかもこれが短期間に整然と行われた事については、多分に政治的圧力があったかもしれないと考えられる。このことについては別の項で考える。

明治三年処断された人々の墓

   廃仏の際破壊された石造物(八幡・穴観音)

石仏


念仏塔