神葬改宗の進行

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神葬改宗については、各平田門人たちの間で個々に進められていった。その火ぶたを切ったのは青山稲吉であった。慶応四年(一八六八)八月一六日に「私儀家内ニ至迠神葬祭此段奉願候 以上」と神葬改宗を弁事役所へ願い出ている。
 これ以降、明治二年(一八六九)九月二二日に日比野村の植松一郎、福岡村の安保謙治の村方二名が改宗を苗木藩知事に願い出ている。いずれも「願之通」の許可が与えられた。こうした動きが先導的役割を果し苗木藩が神葬改宗をとり上げてくるのは、明治三年(一八七〇)七月以降である。同年七月二三日、郡市局名で士族に対し「知事様近日御自葬御願ニ付テハ 士族卒ニ至ル迠自葬相願候様ニト被仰出候 此段心得迠ニ申達候也」と布達している。内容は近日知事が神葬改宗を願いでられるから士族・卒族も同様願いでるようにと、士族に神葬祭をすすめるものであった。
 その後知事が実際に「神葬改宗」を願い出たのは、同月二七日のことで、「私始家族一同神葬祭相用申度 此段奉願候 以上」と弁官役所に願い出ている。即日(一説には八月七日許可)された。
 これ以後は苗木藩内は急速に神葬祭が進められることになった。そして八月一五日には村々の辻堂をこわし、仏名や経典等の彫りのある石碑類は掘り埋めよ。但し由緒あるものは伺い出よの布令が出され明治三年八月二七日「今般知事様始士族卒ニ至ル迠 神葬願済ニ付 支配地一同神葬ニ相改メ可申事 但シ九月十日限届出可申事 堂塔並石仏木像等取拂 焼捨或ハ掘埋可申事」の急布令が郡市局より村々の神職と里正(庄屋)宛出され藩内神葬祭に改まった。