苗木領では神葬祭が進行していく明治三年(一八七〇)八月七日、「氏子改め」の法をたてることを、公用人岩島忠三郎が、政府弁官伝達所に願い出ている。この氏子改めは、江戸時代の宗門改めに代行させるものであった。願い出の趣旨は、武士をはじめ庶民の者まで、神葬祭を願い出る者が多くなったので、支配所中氏子改めの制度を設け、「庶民は村ごとに、その神社の神主と名主・組頭に取締りを申付けても都合の悪いことはないので、お聞き届け願いたい」というものであった。この願いに対して即日「願之通リ」との許可があった。そして翌四年正月には、苗木藩庁より、「先般自葬祭願について許可が来たので氏子改めを申付るので村々は入念に人員を取調べ、来る二月一五日までに差出すよう」、そして「氏子改めについては追て廻村するからそのように心得よ」というものであった。
このように江戸時代の宗門改めにかわるものとして、氏子制が採用されることとなり、その証として、それぞれの神社の氏子であるという「氏子改め札」が祠宮(神主)から一人一人に渡されることとなった。