このようにして神葬改宗となると、徹底的に仏法を廃絶する運動へと発展していった。先にみたように、そのさきがけは明治三年(一八七〇)八月一五日の郡市局より各村の庄屋に出された。仏教関係建造物・碑の取払いの布令。ついで八月二七日の神葬改宗の通牒に付加えられている堂塔や仏具一切の取払い焼捨、または土中に埋めること等の通達であった。
こうした廃仏毀釈の運動は、更に徹底するようになる同年八月には「今般知事始士族神葬ニ相改候ニ付 治下寺院廃棄 住職之儀は帰農申付候 此段可被達候者也」と寺院の廃寺と住職の還俗帰農(げんぞくきのう)の申し渡しをしている。そして同年九月三日大参事が「今回王制復古ニ付き領内の寺院廃寺申付候 速に御受すべし 就ては還俗する者は従来之寺有財産及寺建物を下され 名字帯刀を許し 村内里正の上席たるべし…」とし、住職に廃寺受諾と身分の保障を申渡している。また同日寺院の財産調べと処分についての布告を出している。それは廃仏帰農になったので寺院の田畑山林を詳しく取調べ届出すように、その外宝物家財は本人や役人、檀家相談の上、それぞれ処分せよという趣意であった。
このような動向に対しては、すすんで帰農する僧侶もいたが、一方こうした動きに反発する僧侶のいたことも窺われる。特に名指しで、一向宗徒の動きについては、その改宗の実現を促す布達を、九月一〇日に郡市局が出していることでもわかる。その内容は「今般 朝廷之御届済之上知事様始メ御藩内神葬相改候被仰出 御支配一同へも過日相達置候処 一向門之者共においては 今日ニ至リ彼是私情申張 大々方之御趣旨相背き不都合之事候…早々願い出し可申候 猶此上遅延及び候ハ 御沙汰之品も可然候 此段相達候者也」である。