前述したように、八月二七日の廃仏毀釈の通達から九月二七日の廃寺の約一ヵ月間の間に、中世以来民衆の伝統的な仏教信仰が、いとももろく瓦解したが、その廃仏の強行にはどのような手だてがとられたかについて考えてみる。
この神葬改宗の推進には、二つの大きな特色を感じる。その一つは、この廃仏の強行策が常に新政府の指示の形をとっていることである。従って布達の冒頭には「今般従朝廷被仰出候……」の文字が散見し、また新政府に窺出てその認可を受けるという方法をとっていることである。こうすることによって政府の名において正当化し、住民を納得させていることがわかる。
その二は、この政策の遂行においては、当然ながら明治三年(一八七〇)閏一〇月知事自らも巡見したり、翌四年二月には神事掛、大監察らの役人を巡察させたりして廃仏の励行に努めたことである。そして違反者の処罰は厳重をきわめたことである。このような権力介入で行われた宗教統制であったので、民衆にはその抵抗は困難であったと思われる。