Ⅸ-22 隠されていた位碑
この当時の有様については、後に妙心寺管長になった坂上宗詮がたまたま付知を訪れての帰路、苗木雲林寺に立寄って廃仏の現状を目のあたりに見、その実情を記録したものがあるからそれを紹介し当時のありさまを考えることとする。
「予居ること(付知町宗敦寺)三四日にして苗木に行く、途福岡村に至る、路傍にありし六字名号の立石及供養塔は倒されて小溝の橋に架用せられ、往来の人をして踏で行かしむを怪しまず、予口に経文を黙誦し避けて之を過ぐ、行くこと数町二三の人耳語していふ、『此の坊主未だ還俗せず、何れの地に行くものにや』と蓋し彼等は苗木一万石の廃寺を見て、日本全国悉く廃寺せりと思惟したる者の如し、更に甚しきは大声にて『こりゃ坊主』などと罵るあり、予幼より数次往来したるが為め、一~二茶屋の如き何れも面識の者なり、然るに予を避けて見ざるの真ねす、予も亦見ぬ状を為して過ぐ、苗木町に入りたるも町を行かずして間道を経、雲林寺に到れば白昼戸を鎖し内闇にして人無きが如し、裏口より入りて住職剛宗師に相見すれば曰く、『両三日来使者を以て還俗を勧諭されしも断乎として応諾を与へず』と、大いに道心堅固なるを歎賞す、師は其日より諸道具を明細に取調べし藩庁へ進達の準備をし、予は本山妙心寺への実況伝達等の依頼を受けたり。滞在すること三日にして雲林寺を出て毛呂窪村に到れば、路傍の千体地蔵堂は堅く閉鎖せられ、石像其他念仏寺の石碑は悉く押倒され、其の狼籍の状言ふに忍びず…」(忘来時録・坂上宗詮自叙伝)。多少の誇張はあるにしても徹底した廃仏毀釈であったことが窺われる。