神祭改宗が進むにつれて神葬祭の在り方の確立を急がねばならなかった。そのため明治三年(一八七〇)九月二九日には一村一人宛の神葬祭世話役が選出されるようになっているが、その世話役の仕事・任務等については明らかでない。しかし神葬祭進行と共に新しい神式の啓蒙を果していったことは明らかである。
明治四年(一八七一)二月には神葬についての心得を布達しその中で墓所を清浄にし春秋の祭りを行うように指示し、若し心得違いのものがあるときは処分までするとの厳しいものであった。そして同年三月には神拝の作法まで布告している。このように廃寺・廃仏によって神社・神式がこれにかわり整備されていった。
しかし、藩主の力でも取締れないものに一所不住の虚無僧の問題があった。この虚無僧については従来何れの藩内でも取締りに頭をいため、従って本山に取締りのため毎年金を贈っていた。しかし藩内一同仏教を廃止してしまったので、以後普化僧の取締りのことは本山へ断る。但し管内の通行・宿泊は差支えないが、万一普化その他不法なことをした時は召捕え、法に照して処分する旨弁官へ届け出て承認を得ている。結局虚無僧対策はこの程度の取締りに止まるほかなかったようである。