〔遠山氏の旧領安堵〕

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慶長五年(一六〇〇)一〇月、関ヶ原合戦の論功行賞によって、苗木遠山友政は再び苗木旧領を安堵されるにいたり、一万五二一石五斗二升を拝領することとなる。
 すなわち徳川家康は、豊臣秀吉亡きあとの五大老の筆頭として威望がひときわ高かっただけに石田三成の謀略による「関ヶ原の戦」の火ぶたを切ろうとしたのである。ときに苗木城主川尻肥前守直次(一万石)・岩村城主田丸中務具忠(直昌)(四万石)は石田方西軍に就いた。苗木旧領主遠山友政は下野小山にあって、美濃国および木曽路の地理につき家康より尋ねられて詳細に報告し、鉄砲三〇挺・玉薬二万・黄金三〇枚を拝領し、上地瀬戸の渡しから苗木城を攻略、城代関治兵衛盛祥を降した(遠山家譜苗木物語)。時に慶長五年八月末、近世大名として祖父相伝の遺領苗木城主となったのである。天正一一年、城をすてて遠州浜松の家康のもとへ奔ってから一八年目である。