[慶長五年(一六〇〇)―元和五年(一六一九)] 慶長五年旧領を安堵され、恵那郡一一か村・加茂郡三五か村、合わせて四六か村、一万五二一石五斗二升の領主となる。慶長七年「代官・庄屋勤方定書」を公布して、百姓の逃散・年貢の滞納を取締まるなど藩政確立に意を注ぎ、同一〇年「永不作田畑開発定書」を出して、荒れた田畑の起し返しには四~五年を無年貢にするなどの特典を与えて開墾奨励につとめた。慶長一九年大坂冬の陣には伊勢桑名城を守り、翌元和元年五月夏の陣には、伊勢亀山城主松平忠明に従って軍功をたてた。一方慶長一五年、駿府城本丸用材搬出を申付けられ、福岡村・田瀬村から檜三、〇〇〇本を搬出している。また、苗木に菩提寺雲林寺を創建するなど藩政基礎の確立につとめた。元和五年一二月一九日苗木で歿した。享年六四歳。法号「雲林寺殿心月宗伝居士」。
初代 久兵衛友政 遠山家蔵