七代 和泉守友央(なか)

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[享保一七年(一七三二)―元文五年(一七四〇)] 五代友由の弟、幼名亀次郎、左兵衛といい、友将に嫡子がなかったため宗家を継いだ。二八歳。これよりさき兄友由より五〇〇石を分知され若年寄支配寄合に列していたが、宗家を継ぐに当って五〇〇石は上地処分をうけ、享保一七年八月一七日幕府飛騨代官 長谷川庄五郎に引渡した。このため苗木藩は石高五〇〇石が減って以後一万二一石五斗二升となり「上地」した佐見寺前他三か村が天領(幕領)となった。
 友央も病身であったので、同一八年正月松平播磨守頼明の三男越之進の養子願を幕府へ差出し、元文五年八月三六歳で隠居したが、安永元年(一七七二)六月一三日苗木領福岡村栗本温泉に湯治中歿した。享年六八歳。法号「諦心寺殿前泉州大守興山定隆居士」。

7代 和泉守友央 遠山家蔵