一二代 美濃守友禄

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[天保九年(一八三八)―明治二年(一八六九)] 友寿の三男、幼名貞次郎といい、後勘太郎と改めた。二兄が早く死んで嫡子となり父の遺領を継いだ。藩の財政窮乏はとどまるところを知らず、家中の全給与借り上げ、人員削減・格式先例の緩和等と財政の好転を図ったが、結局藩の建て直しとはならず、藩の借財は一四万両を超えて、まことに「容易ならざる御時節」到来に、領内からの御用金調達はしばしばに及んだ。
 友禄は、安政七年(一八六〇)奏者番となり、翌文久元年七月一五日若年寄に任ぜられ、翌二年閏八月二五日まで在勤した。同三年五月大坂警備を拝命。翌年には再び若年寄となり、慶応三年(一八六七)六月まで在任した。この間、長州征伐に従軍、将軍家茂に従って大坂城にいたが、同年八月将軍死去に伴いその遺骸とともに海路江戸に帰った。同三年一〇月将軍大政を奉還、友禄は明治元年二月九日苗木に帰り、同二一日東山道鎮撫総督岩倉具定を美江寺宿にたずねて官軍に帰順した。六月朝命により信濃出兵。同二年二月職制を改革、三月梅村騒動に際して飛騨に出兵、米百俵を施して窮民を救った。また、版籍奉還を請願して、六月二三日苗木藩知事に任ぜられ、同三年八月から一一月にかけて廃仏毀釈を断行するも、同四年七月一五日廃藩となり、明治二七年(一八九四)四月四日七六歳にて卒去。神葬改宗により「遠山友禄之墓」とある。

12代 美濃守友禄 遠山家蔵


歴代藩主の墓地