領村

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慶長五年(一六〇〇)関ヶ原戦後、旧領を拝領した遠山久兵衛友政の領地高は、一万五二一石五斗二升とされる。しかしここで問題となるのは、明治初年に書き上げた「岐阜県史稿」の苗木藩の項に、
 …慶長五年庚子[月日詳ラカナラズ]遠山友政該城ノ主トナリ、壱万六千五百石ヲ領知ス…
と記載され、また、信憑(ぴょう)性が高いといわれる『濃飛両国通史』にも、「戦後[五年十月]家康、友政の功に酬ゆるに当城を以てし食邑一万六千五百二十一石を賜ふ……三代信濃守友貞(寛永一九年―延宝三年)父秀友の後を承け、領内五千石を弟半九郎に、千石を半左衛門に分知し、残高一万五百石を領す。」と記述されていることである。
 これについて、慶長六年の「美濃一国郷牒」ならびに「元和二年の美濃国村高御領地改帳」[岐阜県史史料編 近世一]は、いずれも「一高壱万五百弐拾壱石五斗二升 遠山久兵衛」と載せ、後藤時男著『苗木藩政史』によれば、「高森根元記」「寛政重修諸家譜」でも一万五〇〇石余になっているという。これらを勘案して、苗木遠山氏の初期における知行高=表高を一万五二一石五斗二升であったとしたい。
 その領村を、右の慶長六年(一六〇一)「美濃一国郷牒」から拾うと、
 ▲ 加茂郡の内三三ヶ村
    赤尾村 いぬ地村 飯地村 みね折立村 きりい村 黒かわ村 福地村 ひめくり村 ひか(るか)川村 高山村 けろくぼ村 中之洞村 福岡村 下野村 田瀬村 上野村 川井村 大野村 杉村 下野村 宮地(代ヵ)村 寺ノ前村 ひろの村 伏(佐ヵ)見郷 かしもと村 越原村 田嶋村 かん戸村 中屋村 大沢村 うたり村 なくら村 上田村
   恵那郡の内四ヶ村
    上地村 坂下村 瀬戸村 日比野村
 両郡合わせて三七ヶ村である。村数は記録によっては異なるものもあり、例えば、最古の領地朱印状である寛文四年(一六六四)の遠山家領地朱印状では「恵奈郡之内拾四箇村、加茂郡之内弐拾四箇村」とされている。
 このように、苗木領は南に木曽川、西に飛騨川をひかえた美濃東北部で、南流して木曽川へ注ぐ付知川・中野方川、西流して飛騨川へ注ぐ佐見川・白川・黒川・赤川などの川筋の山あいにひらけた山間僻地の村々で、耕地に乏しく生産性の低い地域が多い。これらの地域が、関ヶ原合戦後より明治にいたるまで、苗木遠山氏の領村であった。このように二七〇年間の永きにわたって、同一家系大名の支配を受けた地域は、県内は苗木藩のみ、全国でも珍しい。更にいえば、明治初年の大名数二六二藩のうち、関ヶ原合戦以降転封・移封をみなかった大名は、九州の島津・人吉、奥州の伊達・南部と、この苗木の五藩だけであったという。
 苗木藩には小村が多く、「美濃一国郷牒」に載せられた領村のうち、村高五〇〇石を超えるのは僅かに六か村[日比野 坂下 中野方 蛭川 福岡 黒川]で、一方、村高一〇〇石に満たない村数が半数以上に及び、地形上からみると佐見・白川筋に多い。

表1 苗木藩領村略図