江戸時代の武士は、すべて米の量によって身分を格づけされた。将軍の家臣で禄高一万石以上を大名と呼び、それ以下を直参(旗本・御家人)と呼んだが、その所領を、大名は領地、直参は知行所・給地といった。つまりその石高に見合った生産量のある土地支配を任されるのである。この土地の支配を知行という。知行はそのまま領地・俸禄を意味する。
▲ 一、地方(じかた)知行 上級家臣に領地の一定地を給地として与えるもの。家臣は「給人」となり、その土地と農民を支配する。
この地方知行制度が存在した事実の一例としては、棚橋八兵衛(正保二年一五〇石)の場合である。安永四年の「御家中諸士名鑑」によれば、
▲ 刑部少輔様御世、公議駿河御城御用木被仰付候処、右御用掛山方足軽棚橋十右衛門、田瀬村宮脇百姓より出相勤候処、御用木駿州着之節、木品不宣段被仰出候処、十右衛門隠シ切判致シ置、所々御用木之内より選出シ相揃候ヘハ、第一番相立首尾能却て預御褒詞候…(以下略)
冒頭の「刑部少輔御代」は「慶長一五年庚戌年」の誤り…。とあって、田瀬村宮脇・高山村木積沢など高七六石余の知行地を受けている。
▲ 一、蔵米(くらまい)知行 禄高に応じ、一定割合の米を蔵米として与えるもの。=俸禄制
苗木藩では、他の多くの藩と同様に江戸時代初期においては地方知行制を採ったといわれるが、その家臣はすくなく時代とともに削減していったという[苗木藩政史]。
では給人層に対して支給される蔵前知行は、どのような割合で支給されていたかをみることにしよう。
苗木藩の給人数は二〇余人。その禄高を見ると最高でも高三〇〇石、ふつう高一〇〇石が大部分を占めていた。しかし、高一〇〇石の知行取といっても、米一〇〇石が支給されるものではなく、高一〇〇石に対して一定割合が支給される。これを「知行物成」または「物成(ものなり)米」といって、実際に米三〇石を支給されれば、三割の物成米ということになる。この率を「免」といい、寛文一一年(一六七一)の分限帳をみると、
▲ 一、[高三百石 物成米] 九〇石 遠山勘兵衛
とあって、高三〇〇石の知行取である御城代遠山勘兵衛は、九〇石を支給され、従って免は「三ツ」である。苗木藩では給人の物成米支給は一貫して「免三ツ」であった。