江戸幕府時代は、幕府をさして公儀と呼び、幕府が発する行政の命令が御法度である。封建社会の基礎は、いうまでもなく農民である。それゆえに政治的・社会的事件や、文化・思想の状況も、この社会の土台である農民たちのあり方と関連づけて考えなければならない。その基本は田畑から穫れる農民の貢租であった。藩主に隷属した領民は、その土地に固く結びつけられて、自分達のためではなく、年貢を生産するために働かされた、このように農民統制を基本にした封建領主制を確立するために、たびたび法度を発令したのである。
慶長七年(一六〇二)加茂郡切井村に下した藩主友政の定書があり、代官・庄屋の非分を戒めて、農民の土地定着への意図をうかがうことができる。このような触状を領内村々へ下したのである。
幕府から発せられる諸法度は各藩に伝えられ、各藩ではその請書を幕府へ提出する一方、領民に対してはこれを伝達せねばならなかった。また藩独自の示達事項もこまかく領内へ申し渡されるのである。「御条目」はこの御法度を箇条書にして各村々の庄屋へ伝えるもので、庄屋は急を要するものはその都度、通例は正月に村民を集めて各条項を読み聞かせ、または五人組頭から末端まで徹底させ、違背なきよう調印制約させ、庄屋はこの誓約書をまとめて、藩へ提出する仕組みになっていた。
「苗木万仕置法度書之覚帳」には慶安元子閏正月より承応三年三月迄の六年間にわたり、給人・中小姓などの家臣から領内すべての領民に至るまでの、苗木藩政及び領内村治の法制と取締りを知ることができる。