寛永二〇年(一六四三)の前々年には寛永飢饉に見舞われ、この対象として田畑永代売買禁止令を出し、農民生活の各方面にわたって次々に禁制が出された。いわゆる『田畑勝手作りの禁』などと並んで記されており、その一つに「身上(しんしょう)よき百姓は田地も買いとり、いよいよよろしくなり、身上ならざる者は或は田畑沽(こ)却せしめ、なおなお身上なるべからざるのあいだ、向後田畑売買停止(ちょうじ)たるべきこと」とあって、小百姓を保護自立させることを期待されたものであった。ところが実際には無視されがちであったが、このような禁止がしばしば繰り返し出されたことは、江戸時代の農民の土地保有の特質をよく現わしている点で意味があった。
苗木藩では、他領の者に田畑を売るときは、藩庁に願いでて、藩重役の裁許のもとで売却した。また、領民の結婚・相続についても、郡奉行への届出・許可の義務を負わされた。このような百姓対策は、百姓をして封建農民たる封建的地位確立のための意味をもっていた。一方、領主側からすれば、一枚一枚の田を百姓の私物としてもたせるのではなく、農業再生産の単位として、百姓と田畑家屋敷を一体的に結びつけたものとして捉えていたものといえよう。