こうした農民統制の方向は、慶長一〇年以後に出された農民の喫煙禁止・煙草耕作の禁止や、寛永飢饉以後の雑穀食の奨励・米食うどん食の禁止・農民衣類の制限となって現れる。このように最低限の生活水準をもって農民のくらしを支えさせ、生産物を領主に提供させるという領主側の要求が最も完備したものとして出されてくるのが、慶安二年(一六四九)に幕府から出された「諸国郷村江被仰出」と題する御触書で、一般に『慶安の御触書』という。これは幕藩体制下における土地や農民の諸制度の成立を背景として、農民である百姓の心得を示したもので、「幕府を専一と心がけ、麦・粟(あわ)・稗(ひえ)・菜・大根そのほか何でも作り、米を食いつぶさないようにせよ」[一一条]「飢饉の時を思えば、大豆の葉・ささげの葉・いもの葉でも、むざと捨ててしまうのはもったいなき事」[一二条]と説き、また、「身上(しんしょう)なりかねる者は、子どもが多ければ人にやり、奉公にもだし、年中の口すぎを考えよ」[一八条]「酒・茶・たばこをのむな」[六条 二三条]「大茶をのみ、物まいり、遊方(ゆさん)のすきな女房は離縁してしまえ」[一五条]とまで厳しく訓している。
③生産高をあげるための農事奨励には、技術的な心構えにもふれている。○耕作に精を入れ、よく草取りをせよ。田畑の境に大豆・小豆などを植えれば、少しでも足(た)しになる[四条] ○朝から晩まで仕事に油断なく精を出せ[五条] ○余程良い種子をえらべ[八条] ○正月ひまなうちに鍬鎌の手入れをせよ[九条] ○肥料は大切だから便所を大きく作り、雨が降っても水入りせぬようにせよ[一〇条] ○良い牛馬を飼いこやしを作れ[一四条] ○屋敷前の庭は南向きに作り収穫物に土砂など入らぬように奇麗(きれい)にせよ[一九条] ○農作功者(こうじゃ)の教をうけよ[二〇条] ○麦田になる所は、少しでも見立て毎年毎年麦をつくれ[二一条]などと説かれている。
④百姓心得えとして「酒・茶を買って飲むな。妻子同然の事」[六条]「年貢米の割付差し紙は代官が出すから、耕作に精を出し取り実を多くすれば、自分の徳になるものだ」[二四条] そして最後には「地頭は替わるもの、百姓は末代其の所の名田(みょうでん)を便とする者に候間、よく身持ちをいたし、身上(しんしょう)よくなり候は百姓の多きなる徳分にてこれなく候や」[三一条]とあって、『百姓が米・雑穀や金をいかに多く持つようになったとて、無理に地頭代官が取り上げることもなく、天下泰平の御代であるから脇よりこれをおさえ取る者もいない。されば子孫まで裕福に暮らし、世の中が飢饉のときでも、妻子下人をも安心して養うことができる。年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど心やすいものはない。よくよくこの趣を心がけ、子々孫々まで申し伝え、能々身持をかせぎ申す可き者也』。とむすんでいる。このようなきびしい農民統制のもとで、農民を、年貢取り立てるための手段としてのみ考えた幕府の態度は、まこと農民に対して苛酷そのものであった。