土地の田畑を測量して、それぞれの反別等級を定め、それによって反当標準収穫高(石盛)を表わしたもので検地・縄入れ・竿打ちなどともいう。この結果一村の境界を確定して村高と、さらに領国の石高をあきらかにして、もって年貢の基礎としたのである。
全国的な規模でしかも徹底した方法でおこなわれたのが、天正一〇年(一五八二)より始まった豊臣秀吉の検地である。秀吉の検地は、一方で諸国を平定する戦闘を進めながら、他方では刀狩令などによる兵農分離により、戦国大名的な支配体制を自己の政治的支配体制へと、農民の身分固定という租税体系・農村の支配体系を打ちたてていったといえよう。