豊臣秀吉が太閤であったことから太閤検地・実施年号から略して文禄検・天正検ともいう。天正一〇年六月、山崎の合戦で明智光秀を倒した直後、山城国の検地を行い、それ以後天下の統一を進めながら全国各地に拡げていった。美濃国の総検地は天正一七年(一五八九)から一八年にかけて行われた。東濃では恵那郡長田村[恵那市長島町]一冊のみ[県史近世 上]が保存されているが、本町にはこれらに関する史料は現在していない。
天正一七年秋に総検地が実施されるに際し、秀吉が検地奉行に与えた「検地条目」がある。それらによれば、従来まちまちであったマスを京桝(ます)に統一し、面積を中世までの一反三六〇歩を三〇〇歩に縮め、田畠の石盛を定め、一地一作人の原則のもとに名請人[納税責任者]を決定した。一村ごとの検地帳(水帳・竿帳・縄打帳)をもとに、全国一律の基準の石盛による徴税と知行給与になるのである。