慶長検地

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徳川幕府によって美濃国の検地が行われたのは慶長一四年(一六〇九)である。美濃国総奉行として岐阜靱(うつぼ)屋町に陣屋をかまえた大久保石見守長安は、関ヶ原の戦(慶長五年 一六〇〇)の戦後処理にあたり、慶長一四年から一五年にかけて検地を行った。世に「石見検地」とも「慶長検地」とも呼ばれている。
 この検地は、その基準も方法もほとんど太閤検地を踏襲して施行されたが、後述の石盛(こくもり)[減反当り基準石高]を示す石盛表だけは、翌慶長一五年、美濃国中ヘ一斉に配布されている。当町ではこの石見検地「福岡村御縄打帳」六冊が保存されており、検地帳では最も古いもので次に抄出してその大要を示そう。
 ▲   遠山久兵衛知行  慶長拾四年
  濃州恵那郡内福岡村御縄打帳
      酉十月廿三日                 小宮山八兵衛
                             深尾甚六
(上なへ木)
八冊内 三               案内者 彦二郎
              (うしころし)
  [拾弐間 拾弐間]    中田四畝廿四歩        喜二郎
              (同所)
  [弐拾弐間 弐拾五間半] 下田反八畝廿壱歩    同人
              (同所)
  [六間 拾間]      田弐畝歩    永不作 藤一
          ……(中略)……
       右之寄(よせ)
   一、上田四町壱反弐畝六歩
   一、中田五反九畝廿九歩
   一、下田弐反壱畝拾九歩
   一、上畠壱町五反九畝壱歩
   一、中畠八畝三歩
   一、下畠三畝三歩
   一、中畠壱畝六歩         当不作
     紙木八束        桑木三束
   田畑合六町六反五畝七歩
       右之外
   一、田六町弐反弐畝弐拾歩      永不作
   一、畠壱町九反七畝四歩       永不作
       以上
     慶長十四(一六〇九)年酉十月廿三日   小宮山八兵衛
                   深尾甚六
 以上は第三冊分で、他の五冊も同様の形式で記載され、屋敷の反別は欠落しているが、第八冊目に記入されていると思われる。検地帳に名請人として登録された者を「帳付百姓」といった。第五冊目(宮の前)の帳付百姓名のうちに「てこ」(定使(じょうづかい))分として田畑合わせて、二反五畝二八歩がある。「お触」を村継ぎしたり、各種の願書を代官所などに届けたりする使役として、どこの村でも特定の人が用意されていた。また「弥宜」分として、八反六畝二六歩が記載され一年間の神職の給与も村で定められていた。

福岡村御縄打帳
〔史料編158〕志津典所蔵

 
表6 慶長検地の村々石盛表
地種 麦田 上田 中田 下田 下々田 上畑 中畑 下畑 下々畑 山畑 茶畑 屋敷 桑1束 楮1束
村々
日比野村
他2か村
14 12 10 12 10 8 14
坂下村 坂下村 15 13 11 11 9 7 12
高山村
他3か村
14 12 10 10 9 7 12
田瀬村 13 11 9 6 9 8 6 3 12 2升 4升
蛭川村
他6か村
13 11 9 9 8 7 12
切井村 13 11 9 9 8 6 12
犬地村 14 12 10 9 7 6 12
福地・赤河村 13 11 9 9 8 6 12
名倉村 14 11 9 10 8 6 12 12 2升 4升
打尾村 14 12 10 11 9 7 3 12 2升 4升
田嶋村 15 14 12 10 12 9 7 12
越原村
他14か村
14 13 11 9 9 8 6 3 12 2升 4升
柏本村
他5か村
14 12 10 12 9 7 12 2升 4升
神土村 14 13 11 9 9 8 6 3 12
黒川村 14 13 11 9 9 8 6 12

(註) 日比野村他2か村→日比野村・瀬戸村・上地村
   高山村他3か村→高山村・福岡村・下野村・上野村
   蛭川村他6か村→蛭川村・毛呂窪村・姫栗村・河合村・中之方村・飯地村・峯下立村
   越原村他14か村→越原村・有本村・吉田村・大野村・寺前村・小野村・室原村・管島村・成山村・徳田村・油井村・広野村・若松村・中屋村・須崎村(佐見郷)
   柏本村他5か村→柏本村・久須見村・下野村・宮代村・大沢村・上田村(白川郷)

 
 検地帳にはまた、当不作・永不作などが記されている。これは福岡村の検地帳のみではない。当不作は当年不作の耕地であって、寄(よせ)(合計)の地積に加えられている。永不作は、以前の検地(太閤検をさす)で耕地とされたものが、水害などのために「つぶれ地」となった土地で、地積は記録されるが集計からは除外されている。このほか「カミ木」八束、「桑木」三束が記帳されている。和紙の原料のことである。楮(こうぞ)・桑・漆・茶を畑の四木といい、いずれも貢租の対象とされて、検地の際にその数を記録された。束・把の数量で一束は三尺廻りの大きさにして、一〇把が一束である。