石盛

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慶長一五年(一六一〇)八月、各村の石盛がいっせいに示された。これを田瀬村についてみると、次のようである。石盛とは斗代(とだい)ともいわれ、標準穫高を斗桝(とます)で表したもので「上田拾三取」とは、上田一反歩から斗桝で一三杯の米が穫れること、すなわち反当収量一石三斗というわけである。同じく「下畑六ッ取」は下畑一反歩の年間収穫量を米に換算して六斗と評価されたわけである。この石盛表の署名者平岡因幡守・和田河内守・鈴木左馬助の三名は大久保石見守長安の手代で、領内各村一筆ごとの収穫高が決まり、その集計により村高も決まる。苗木藩の場合、この石盛により石見検地が重要な意義をもったといえる。田瀬村以外の町内三か村の石盛は、田畑とも「一ツ」=一斗宛高い評価となっている。これを領内四六か村の斗代定でみると、坂下村の田は一斗宛高く最高である。
▲ 恵那郡田瀬村
 一、上田  拾三取
 一、中田  拾一取
 一、下田  九ツ取
 一、下々田 六ツ取
 一、上畑  九ツ取
 一、中畑  八ツ取
 一、下畑  六ツ取
 一、下々畑 三ツ取
 一、屋敷  拾弐取
 一、 鍬  壱束ニ付弐升取
 一、 楮  壱束ニ付四升取
     以上
   慶長拾五年庚戌年
       八月廿二日
         平岡因幡守印
         和田河内守印
         鈴木左馬助印
 さて、検地がすみ石盛が決まると、一筆ごとの収穫高が算定できる、このようにして田瀬村では慶長一五年一〇月、名請人ごとの所持高を算定して記帳した。この帳簿を「名寄(なよせ)帳」という。町内四か村の名寄帳がみつからないが、名寄帳を合計すれば各村の村高を知ることができる。このようにして一村の総石高を村高とし、領村全部の村高合計が、その領主苗木藩の石高[知行高拝領高]となる。
 慶長六年(一六〇一)美濃一国郷帳[史料編 四五]による遠山久兵衛知行高の一万五二一石五斗二升に含まれる町内四か村の村高は次表のようである。
(表)表9 福岡町内村々拝領高 (寛文4年)
 村名  石高
 高山村  313.488
 福岡村  745.89
 下野村  369.98
 田瀬村  299.376

 江戸時代を通じて、領主は徳川将軍の領知状により、領地権を行使することとなる。領知状は二代将軍秀忠の時代により、一〇万石以上は判物、以下は朱印状と区別されるので、苗木藩は朱印状[史料編 四六]・知行目録(別紙)の交付により領地が封与されている。
 苗木遠山藩は前述のとおり恵那郡一四か村、加茂郡二四か村所領高一万五二一石余であったが、延享三年(一七四六)の朱印状では、高五〇〇石と加茂郡内で二か村減少している。これは享保一七年(一七三二)、遠山友央が本家を継承し第七代藩主となった時、さきに(享保七年)分知を受けていた五〇〇石を延享二年、上知したことによるものである。一方、村から納める年貢は、知行高(表高)ではなく実際の収穫高(内高)を基礎として、租税のほかすべての賦役・高懸(たかがかり)物はいうに及ばず、時代が下がるにつれ過重を増した御用途や伝馬銭賦課にも用いられた。