一村の村高に租率をかければ、その村の租米(年貢)が出てくる。この年貢(税金)は江戸時代の租税の根幹であったので本途物成(ほんとものなり)とよばれた。苗木藩では、この租米に附加税の「口米(くちまい)」を加えたものを「定納米」、略して定納(じょうのう)とよんだ。
江戸時代の年貢のきめ方には、検見と定免の二つがある。検見とは、作毛を検べる毛見(けみ)ともいい、その年ごとの収穫高(作毛)を検べて、その結果にもとづいて年貢を課けた方法で、その年によって税額は一定でなく、豊凶災害により年々増減があった。これに反し、定免法は豊凶にかかわりなく、村高の一定率を年々納めさせる方法で、その税率(註)(免(めん))が一定であるので定免とよばれた。苗木藩では当初からの定免法が採られ、江戸時代を通じて増免[税率を増やすこと]も破免[定免法をやめること]もなくして明治維新に至っている。
(註) 江戸時代の年貢は、石高に一定の比率をかけて年貢額(取箇)を本年貢としたのである。この比率を免または厘といった。本来は年貢を納めた残りを作徳米として百姓に免(ゆる)し与える意味であったが、転じて租率(比率)となった。
▲ 慶長十五庚戌年、大久保石見守様御検地之節、村々高并免取帳之写(関係分のみ)
一、高四百三拾三石四斗六升四合 下野村
物成米百拾八石六斗八升弐合
免弐ツ七分三朱八厘
一、高弐百七拾五石弐斗六升壱合 田瀬村
物成米百石壱斗四升
免三ツ六分三朱八厘
一、高五百六拾七石弐升七合 福岡村
物成米百八拾七石壱斗弐升
免三ツ三分
一、高三百五斗弐升四合 高山村
物成米百拾四石四斗四升
免三ツ八分八厘
右は慶長一五年(一六一〇)苗木領内のうち、町内四か村の村高・物成高・免を抄出したものである。高山村では内高三百石五斗弐升四合に免の三ツ八分八厘を掛ければ、物成高百拾四石四斗四升が産出されるわけである。免一ツは石高一石に対する物成米一斗を意味した。たとえば石高一〇〇石に対し免四ツ半といえば、四五石の本年貢を納めることを意味する。苗木藩で最も高い税率を示した上田村は、免五ツ七分三朱二厘と六公四民に近く、最低率の久田島村では免一ツ四分三朱であった。もちろんこの税率は高山村の場合でも三八・〇八%とみな一律で、現在のような累進課税方式ではなく、ましてや基礎控除も扶養控除もなかったので、大百姓はまだしも小百姓は自分の食扶持にも事欠くありさまであった。