永引(えいび)き

32 ~ 33 / 126ページ
苗木藩は初めに記したように定免制に拠っていたから、凶作が続いても洪水によって田畑が流されても決められた年貢だけは上納しなければならない仕組みであった。しかし、災害が激甚で復旧困難をきわめ、上納が不可能な場合は、永引きという年貢減免が免(ゆる)された。
 ▲    寛延四辛未六月廿五日之夜之洪水ニ付、水損場御見分之上、御引免左ニ記(中略)
           永引免
   一、米六升六合七勺 口米共ニ                               高山村分
       内
     一、米弐升六合三勺                              下おこし 為助
         内、壱合口米也、所ハ知原川はた、茶屋方之かけ也
     一、米四升四勺                            大かいと東ノ屋敷 太次右衛門
         内、壱合六勺ハ口米也、所ハ五升まきと申所
          当引免 未ノ壱ヶ年切
   一、米五斗三升壱合八勺 口米共ニ                             高山村分
       内
     一、米四升壱合四勺 所ハばゝかふちより川下も               ちわら東ノ家 六右衛門
         (中略)
   右之通、未ノ十月御引免出申候、御証文ハ一紙ニ成、出申候よし、坂下より蛭川へ御廻し被成候故、写し留置申候、其後、後代官吉村与次右衛門殿御支配ニ成候て、宝暦四甲戌八月一六日ニ永引之後証文御廻し、福岡より受取拝見仕、蛭川村へ相廻し申候、以前写し置候故、此度ハ写し不申候 以上
 洪水などで収穫がない時には、このように厳重な見分けがあり、永引きなり、当引き(その年一年だけの年貢の減免)なりの証文が回覧されていた。