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和紙は、年貢紙・御蔵紙ともよばれて、苗木藩にとっては財政上かなりの位置を占め、紙奉行もおかれていた。万治二年(一六五九)における『福岡村御年貢紙改帳』によれば、紙奉行武藤伊左衛門の支配により、「〆三円(まる)四束五帖、内、四束五帖ハ、ふなやく、年々上ル」とあって、瀬戸村の五兵衛・助十郎が見立鑑定をおこなっている。坂下紙の単位は一般に、一帖は二四枚、一束は一〇帖、一円(まる)は一〇束とされ、ふなやく(紙漉(すき)船)の年貢は定着していないことを物語っている。この頃の田瀬村では北方村々と同じく一律にいずれも「楮壱束四升取」の石盛をうけていたが、宝暦元年(一七五一)年貢通帳からは、小紙割賦書でも田瀬村六円三束七帖、下野村八円五束三帖、福岡村拾四円弐束七帖、高山村八円四束壱帖となって、以後明治にまで及んでいる。
 苗木藩の紙年貢は、船役紙を含めてその半分を金納、残り半分を現物納とするのを定法とした。福岡村を例にすると、純然たる小物成の船役紙を除いた一四円弐束七帖に対して、毎年変わりなく四石九五二の代米が下給された。これを、平均米一石が一両であったとすれば、金にして四両九分余が下給されたことになる。

享保4年 高山村御年貢紙割付帳

〔史料編245〕高山区所蔵