領内での諸職人は、酒造・鍛冶屋・大工・木挽・左官・畳屋・石工・黒鍬(くろくわ)(土方)・馬口労(ばくろう)などで、それぞれ運上金を上納した。これらの営業をはじめようとする者は、庄屋を通じて担当代官に願い出、鑑札をうけて営業をした。その運上金は毎年納めていた。安政二年(一八五五)高山村御年貢帳[史料編 二三九]による運上金は一年につき次のとおりである。
▲ | 酒造 | 金三分 | 指物屋 | 銀弐匁 | 商人 | 金壱分 | 桶屋 | 銀四匁 |
大工 | 銀四匁 | 猟師 | 銀八匁 | 木挽 | 銀三匁 | 石工 | 金弐朱 | |
左官 | 銀六匁 | 馬口労 | 銀拾匁 |
これら諸職人は、毎年正月に営業改廃、継続の手続きをとったが、年間通じての職人は少なく、冬季農閑期のみ営業する「半入札」を願ってその運上も半額であった。
また、福岡村平山売払運上金[史料編 二四九]のように、平山(ひらやま)[村持山組持山]で山林立木を伐採・売却する場合には届け出て山方役人の見分(けんぶん)を受け、材木価格の一〇の一に相当する運上金が課せられて藩に納めている。[史料編 二五〇]は馬喰(ばくろう)(馬口労)札の札改めを文政七年(一八二四)正月藩へ願い出、同時に馬肝煎(周旋人)が加わり銀五匁づつの運上金を納める願書である。
冥加金は、自発的にしかも一時的な税で定率もない。したがって税というよりは、むしろ献金的性質のものであった。冥加は冥加金・銀のごとく金納を原則としたが、冥加米としてしかも年々定率をきめて賦課されるようになった。明治五年(一八七二)福岡村定納記[史料編 二三五]は、明治維新により、米納年貢制最後のもので、冥加米は一般租税と同じように取扱われていることがわかる。