米納と金納

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領内で毎年納める年貢は米の量で割り付けされるから、米で納める(米納)が原則である。上知後の天領である下野村では、年貢の三分の一を金納し、残り三分の二は米納したというが、苗木藩の当地域は、江戸廻米の米納分を除き、他は原則的に金納ということになっていた。金納については毎年一一月、その年の公定価格「米御直段」が公示されるので、これを金銀に換算し分割納めをした。すなわち、
 ▲  申ノ納(おさまり)米御初直段之事   金壱両ニ付 米壱石弐斗替
  右之通御初直段被仰出候間、御蔵米六分通売払、代金可被差上候、勿論金子請合之分随分取立可被差上候、以上
        申十一月廿九日                             藤田仲右衛門
 これは宝暦二年(一七五二)一一月二九日に北方代官から、北方村々へ、この年の米価を金一両につき米一石二斗替と定められたから、各村収蔵米の六分(六割)を売り払い、この勘定で代金を金納せよと指令したものである。定免制を採用している苗木藩では、免がかわらない限り、また永引き田畑がない限り納入高は固定していたから、ことさら庄屋が年貢割賦の業務を行う必要はなかった。従って年貢を納める上での問題は、百姓が上納した年貢米を庄屋が郷蔵(ごうぐら)に入れて保管し、藩からの要請によって払立てることであった。この場合に蔵米の払立て値段が、藩の米価となるわけである。これを金銀に換算して分割納入した。しかし金納は百姓にとっては不利な貢納方法であり、特に江戸時代末期にはこの金納が増加したため、米納を訴える嘆願書をたびたび提出している。
 このようにして、個々の百姓または一村が郷蔵へ米納したり、あるいは庄屋元へ金納がなされると、庄屋は「御年貢帳」に記帳し、「御年貢請取通」と「御年貢金仕切通」を個々の百姓に渡して、納入の都度記帳捺印して受領した。ただし、天領の下野村は米納制はとらず、すべて金納制で一貫しており、完納すると支配役所より「御年貢皆済目録」が一括して村に手渡されている。

享保15年 高山村御年貢定納帳

高山区所蔵