江戸廻米

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寛永一二年(一六三五)武家諸法度が改定されて、参勤交代制度が確立されると、すべての大名は参勤一年交代と妻子の江戸在住を命ぜられた。そのため年貢米を特別調製させて江戸へ廻送させた「江戸廻米(まわしまい)」というのがある。江戸廻米には、藩主と家族の御膳米と、家臣の食料の御並米とがあった。毎年春秋二回に分けて、その食糧米を領内から江戸へ廻送した。「高山村御年貢納通帳」安永九年より文化五年までの二八年間では江戸廻し米として二回三斗ずつ上納記録されているので、割り当てがこの時あったことがわかる。これを『中野方村諸格合之覚』から江戸廻米を見ることにする。
 ▲   江戸廻し御膳米、めいめい売人につき一日に壱升ぐらい選り申し候、御並米、八・九升より壱斗ぐらい選り申し候
  一、与頭・五人頭其の最寄へ罷出・米寄相(合計)改め・五人頭枡取仕り(枡扱い役)・俵致し上かわ(二重俵)相掛け・小口かがり・ふどう掛け(不動縄)・入札・小口札・差札共に相付け置候、村中三日に受取申候
  一、御米御改めの御役人様御出の節、米御覧に入れ、貫目相記し申候、御請書御役人様へ差上げ申し候
  一、御差図日限の内に黒瀬、問屋孫七郎へ相渡し申し候、右駄賃一俵に付、中野方村より黒瀬迄、弐百五拾文づつに御座候
  一、翌春御廻し分は、拵え立候て御蔵へ詰置申し候(以下略)

御年貢通い帳 高山区所蔵

 黒瀬では、苗木藩各方面から届けられる江戸廻米を「米揃え」して藩役人の見分をうけ、舟積みして木曽川を桑名湊まで送った。桑名では廻船に積み替え、海路を江戸まで廻送された。苗木藩江戸廻米運賃は、桑名までの諸入用が村負担であったといわれている。