村役人

40 ~ 40 / 126ページ
今の福岡町は、江戸時代徳川幕府のゆるぎない社会組織と巧みな政治機構に組み込まれて、四つの村(田瀬村・下野村・福岡村・高山村)が二六五年間を通じて苗木領であった。もっとも下野村の大部分は延享二年天領として、苗木藩から離れるまでの一四二年間ではあったが、これだけ永い間、徳川政権が動かないで続いてきたことは、世界史においても珍しいことであって、こんにち、私共が持っている風俗・習慣・年中行事を始め、多くの文化遺産やひとり一人の意識構造にいたるまで、江戸時代は大きな影響力を与えてきた。
 これを、農民農村の側でみると、古い政治勢力や農村自治の育ちかけた中世社会構造を、信長・秀吉によって徹底的に破壊され、土地所有に関する領主権(年貢徴収権)と石高所領権の二つによって、農民を土地にしばりつけ徳川幕府へ引きつがれ、ここに農民の搾取を基礎とした封建社会体制が確立していった。このようになった近世の村々には、郡奉行や代官の指図をうけて、村を取りしきる村役人があった。
 村役人は、「村方三役」または「地方(じかた)三役」と呼ばれ、庄屋(名主)・年寄(組頭)・長百姓に分けられるが、当苗木領においては、史料を見るかぎり「百姓代」と署名ある地方文書は極めて稀であって、村役人に属さない百姓代的な資格をもった「長百姓」が、その任に当ったとみるべきであろう。