庄屋

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村役人の長を名主(なぬし)とか庄屋と呼び、東日本では多く名主といい、西日本では多く庄屋といった。藩政の末端行政を掌る庄屋の役目は、村単位で割り当てられる年貢を完納することが最も重要な任務である。このほか、村の中の道路・用水などの土木工事・戸籍関係・宗門改め・田畑家屋の売買・証明訴願の奥印・村人の生活上の世話など、村内の公私すべてにわたって村の行政官でもある。庄屋は、庄屋事務を自宅にあてたので、村民はこれを庄屋所(どこ)とよんだ。
 このような庄屋が、いつごろからできたのか判然としないが、『福岡村庄屋之つり書』によれば「福岡村庄屋ハ慶長一二年ニ始ル、其以前庄屋無之由(後略)」とあり、さらに、苗木藩は慶長七年(一六〇二)「代官勤方定書」[県史・史料編近世 二巻]が、藩主友政より加茂郡切井村の庄屋・小百姓あてに出された文中に「村々庄屋」の文言があって、このころ、領内村々にはすでに庄屋があったことになる。庄屋は普通各村ごとにおかれるのであるが、宝永年間のころ苗木領四六か村のうち、庄屋が居たのは三一か村だけで、村高一〇〇石に満たない小さな村へは統合しておさめる兼帯庄屋が置かれた。兼帯庄屋は白川筋・佐見川筋に多かった。延享二年(一七四五)天領となった下野村では、残地分高七九石七と、東組田代組・大原・小野沢の計三二戸が隣接の上野村庄屋の管轄をうけることとなった。
 これらの庄屋は、行政の末端事務を請け負うわけであるから、藩は「庄屋給米」を支給しているが、庄屋へすべてではなく、元禄期には八か村(福岡村が入っている)の庄屋に一人一石五斗の支給を受け、その総計は一七石となっている。この他の庄屋の場合は、給米が支給されないかわりに、「高役(たかやく)」(石高に応じて賦課する課役)を免除されていた。このように庄屋は草分百姓が近世の村が形成されるにしたがって、代官・領主から世襲的に任命されることが多かった。――田瀬村の丹羽家や、高山村の後藤家。しかし、下野村・福岡村では初期に「入庄屋」といって隣村より書算に通ずる者を任命し、年番庄屋が現われてきた。寛政年間大石久敬著『地方凡例録』に「庄屋は家が固定し、数代連綿と勤続し、たとえ大高持の富裕百姓でも、その家でなければ庄屋にはなりえない。それで庄屋の威光が強く、その下知にそむくことが少ない。その反面、勢いにまかせて横暴となる。そこで享保の頃より一代勤め、または年番庄屋が現われてきた。しかし、百姓仲間ゆえ役威がうすく下の示しがつかず、村中不取締の儀も多い。結局いずれがよいかわからない。」と両者の可否を述べている。
田瀬村庄屋系譜
氏名在職備考
一代丹羽
孫右衛門正行
天正年間から慶長年間のころまで越中の国富山城主佐々家浪人。天正年中、濃州恵那郡遠山家領田瀬邑庄屋役を勤む。寛永五年一一月一七日死亡。法名 長岩宗椿居士
二代丹羽
治郎八郎行貞
元和のころから寛永一六年まで孫右衛門正行に子無きため下田瀬松葉より養子家督相続、庄屋役を勤む。寛永一六年九月一八日歿。法名 桂翁常琰
三代丹羽
五兵衛行信
寛永一六年から延宝元年ころまで妻は苗木藩家老棚橋八兵衛の姪、尾州一之宮織田信長の家臣浅井庄蔵の娘。正保二年死亡のため後妻、中之方村曽我勘右衛門の娘。元禄二年一〇月一七日歿、七一歳。法名 不法源説
四代丹羽
孫右衛門行直
延宝二年ころから天和元年ころまで幼名孫八郎。貞享四年一〇月一日死亡、四六歳。法名 仁叟紹智
五代丹羽
五兵衛行良
元和元年ころから正徳年間まで行直の弟。幼名を新太郎・銀三郎のち孫左衛門・五兵衛と改名。貞享四年家督を相続。妻は切井村庄屋纐纈庄七郎の娘。享和ニ年、五男銀左衛門を連れて上田瀬に移る。同四年一二月ニ五日死亡、六二歳。法名 俊岳了機
六代丹羽
幸七郎正質
享保元年ころから宝暦五年ころまで幼名新八郎・行寿、享保二年家督相続のち幸七郎・五兵衛・三左衛門と名乗る。妻は福岡村庄屋西尾太郎右衛門道勝の娘。明和四年八月二七日歿、享年七二歳。法名 松礼智鉄
七代丹羽
団蔵正贇
宝暦六年ころから天明五年ころまで幼名を鉄之助・留三郎のち三郎左衛門・三左衛門、天明五年西尾代右衛門と改名。天明六年五月、江戸御屋鋪で病に倒れ同年八月二七日死亡、三六歳。法名 秋随一様
八代山田常左衛門陣内天明五年ころから享和三年ころまで後見 山田清治郎逸因
九代丹羽
甫逸正因
文化年間から文政一一年ころまで正贇の弟。幼名 熊次郎・玄益のち安右衛門・右忠治または彦右衛門と称す。苗木藩家臣水野甫〓に師事、医業を行う。文政一一年二月二一日死亡、七二歳。法名 逸翁宗玄
一〇代丹羽
孫右衛門正康
文政一一年ころから天保七年ころまで後見 山田伝右衛門定高。安政六年五月一七日死亡、享年五〇歳。法名 俊叟紹英
一一代西尾五郎兵衛天保七年八月より弘化年間まで上野村庄屋。天保七年八月二三日、苗木藩命により田瀬村庄屋を仰せ付かる。
一二代丹羽
五兵衛正徳
嘉永年間より元治年間ころまで明治二年梅村騒動に際し、苗木藩重臣曽我祐申来泊す。明治三二年三月八日歿。
一三代丹羽
治郎正一
慶応初年より明治四年まで明治四年庄屋制度廃止まで勤む。その後、名主・里正を勤む。

下野村庄屋系譜
氏名在職備考
一代田口吉兵衛慶長のころ福岡村庄屋西尾藤九郎日記(安永三年)に記される。田口喜四郎の兄でその兄小平太は上野村庄屋である。別名平六郎ともいう。
二代田口権左衛門正保から寛文のころ吉兵衛の伜。明暦年間に下野村に来たと伝えられている。明暦三年、白山神社棟札に名前が記載される。元禄二年七月五日死亡。法名 本源道歩信士
三代田口新兵衛宗明延宝元年ころから元禄二年まで権左衛門の伜、新左衛門宗明とも言う。貞享二年、白山神社棟札にあり。元禄二年七月六日に死亡。法名 絶学宗心禅定門
四代新田源兵衛元禄二年から元禄一一年まで庄六・源右衛とも言う。元禄二年七月新兵衛事件のあと、藩命により加茂郡中谷村の庄屋を弟に譲り、一家をあげて下野村転住庄屋となる。元禄一一年七月七日死亡。法名 法雲道性信士
五代新田甚八郎元禄一一年から享保四年まで源兵衛の伜。法界寺棟札に見る。享保七年一一月二日死亡。法名 唯峯寿心信士
六代田口平六郎享保四年から享保七年ころまで享保四年、白山神社の棟札に記名あり。上野村の庄屋であったが当時隠居の身であり、甚八郎死亡後清兵衛任命までの間庄屋を勤めたと推測される。
七代田口清兵衛宗行享保七年ころから宝暦一〇年ころまで田口新兵衛の外縁と伝えられる。宝暦一〇年二月二一日死亡。法名一叟良眞信士
八代志津八百助覚品宝暦一〇年ころから寛政八年まで豊四郎・豊四良ともいう。安保家より志津家の養子となる。天明より寛政七年までの棟札に見る。享和二年三月一五日死亡。法名 大円安康信士
九代志津次左衛門時定寛政八年から文化三年まで治左衛門覚品とも書く。寛政の山論より文化三年ころまでの記録による。文化七年三月一五年死亡。法名 本有是径信士
一〇代安保清六郎文化三年から文化九年ころまで清六とも称す。文化九年一二月七日死亡。法名 仁岳宗寛信士
一一代安保伊右衛門文化九年ころから天保三年ころまで金右衛門とも言う。清六郎の伜。嘉永七年六月一一日死亡。法名 禅源自定信士
一二代西尾源六郎天保三年から嘉永二年ころまで源六とも称す。嘉永七年七月二五日死亡。法名 豪山良染信士
一三代西尾源右衛門嘉永三年から万延のころまで源六郎の伜。明治三三年一〇月二二日死亡。法名 道源揮理居士
一四代安保松兵衛文久元年ころから慶応二年ころまで明治三一年三月一四日死亡。法名 大縁宗器信士
一五代安保由之助慶応二年から明治二年まで松兵衛の伜。明治三五年三月一三日死亡。法名 春光軒溢道玄和居士
一六代早川兼助明治二年より由之助のあと明治四年一一月廃止まで庄屋をつとめる。

福岡村庄屋系譜
氏名在職備考
一代田口彦次郎慶長一二年ころから慶長一四年ころまで飛州片平村の商人で福岡の地へ出入りしていた。読書きができることから井戸尻を庄屋地として初めて勤める。
二代田口喜四郎慶長一四年ころから元和年間のころまで飛州の出身で長兄の小平太は上野村庄屋、次兄の吉兵衛は下野村庄屋であった。上屋敷に住んでいたので井戸尻と上屋敷と替地して勤めた。そのころ上屋敷は伊藤太兵衛の給所地であった。
三代田口太左衛門寛永年間喜四郎の子で上屋敷を貰う。
四代西尾
清蔵勝之
正保年間西尾家一七代。うち六右衛門勝之と改名。福岡村庄屋退任後、毛呂窪村庄屋となる(やしき)。元禄三年二月一四日死亡。法名 古岳道台信士
五代西尾
清右衛門勝長
慶安のころより延宝のころまで清蔵の弟。のち清右衛門と称し赤川村の領主古田彦一郎の聟養子となり、また古田彦市(一)と改める。平野屋の始租となる。天和二年、伜の太郎右衛門にゆずる。同年九月二七日歿。法名福泉道恵居士(平のや)
六代西尾
太郎右衛門勝久
天和二年ころから元禄六年ころまで勝長の子。のち彦一郎と改名、また彦市(一)とも称す。妻は田瀬村庄屋丹羽五兵衛の女。法名 孤圓道秀居士(平のや)
七代西尾
太郎右衛門道勝
元禄六年ころから享保のはじめまで彦一郎(彦一)ともいう。苗木藩弓道師範。妻は六代太郎右衛門の娘。享保二年に歿す。法名 諦巌了義信士(平のや)
八代西尾
定四郎勝利
享保二年ころから享保三年まで七代庄屋太郎右衛門の子。のち太郎右衛門と改む。享保三年早世す。法名 顔峯良回信士(平のや) 
九代西尾
孫六郎勝房
享保三年から寛保元年まで四代六郎右衛門の孫。勝正・六右衛門・孫六良(孫六)・勝之助とも称す。西尾家一九代。寛保元年七月二七日死亡。法名 古外安哲居士(やしき)
一〇代西尾
三郎右衛門勝胸
寛保元年から宝暦四年まで孫六郎の伜。勝二郎ともいう。病身のため宝暦四年に後役へゆずる。西尾家二〇代。明和七年正月二日死亡。法名 陽臨宣正信士(やしき)
一一代深谷新五兵衛宝暦四年から宝暦七年まで彦惣の孫か?入札でもって後役の庄屋に選ばれる。
一二代西尾
源右衛門勝家
宝暦七年から安永三年までのち忠(仲)右衛門勝和という。西尾家二一代、筑後三代。寛政一二年八月一三日歿。法名 琢巌宗誠居士(ちくご)
一三代西尾
藤九郎高呃
安永三年から天明二年まで西尾家二一代。六三郎とも称す。天明二年九月歿。法名 中巌宗周信士(やしき)
一四代西尾與十郎天明二年から寛政元年まで西尾家二二代。寛政元年一〇月一九日歿。一六歳。法名 聖應恵廓信士(やしき)
一五代安保彌七郎寛政元年から寛政五年まで寛政五年八月上野村の一件で御免となり組頭預り、その年の一二月三右衛門へ下命される。正春・常助を改め彌七郎とする。のち遠山家に仕える。文政二年八月九日死亡。法名 法諡栄屋道昌居士(町や)
一六代西尾
三右衛門勝続
寛政五年から文化六年まで西尾家二二代の與十郎早世につき、名倉村野尻吉兵衛正富の三男。寛政元年一二月、西尾家二三代養子となる。医師。幼名を慶助。寛政四年一〇月より庄屋助役を勤め一二月本役となる。八伏・下野境界について公事のため江戸に赴くこと三回。文化一一年三月二七日江戸で死亡。法名 純屋文誠居士(やしき)
一七代西尾
源右衛門高伴
文化六年から文化一四年まで筑後五代目。勝四郎とも称す。文化一四年二月二〇日死亡。法名 一峰道貫居士(ちくご)
一八代西尾五郎兵衛文化一四年から文政五年まで五郎之亟・三右衛門とも言う。元上野村庄屋。(はせ川)
一九代西尾
仲右衛門高当
文政五年から嘉永年間まで勝四郎とも称す。筑後七代。慶応三年六月一二日死亡。法名 鏡山良温居士(ちくご)
二〇代大野
喜左衛門寛敬
安政元年ころから慶応元年まで源六ともいう。大野家一〇代目。慶応元年一二月二四日死亡、四六歳。法名 真方道教居士(棚田)
二一代大野
安兵衛寛正
慶応二年から明治四年まで大野家四代目。源六寛武の二男。善兵衛の代に松島に移り租となる。(松島)

高山村庄屋系譜
氏名在職備考
一代田口又左衛門寛永のころ中屋家舗に居住。元禄二年死亡。(佐見屋五代)
二代田口勘左衛門又左衛門の長男。元禄一三年歿す。(佐見屋)
三代田口勘三郎庄屋御免追放仰せつけられる。
四代田口
又六郎義忠
又左衛門の二男。正徳三年歿す。(佐見屋)
五代後藤
清九郎忠光
明暦三年から天和三年まで瀬戸村庄屋より聟養子。幼名を茂兵衛。藩命により高山村庄屋を相続。貞享五年死亡。法名 心観性居士(佐見屋八代)
六代後藤
庄兵衛忠秀
貞享元年ころから宝永五年ころまで妻は上野村庄屋田口氏の女。享保六年死亡。法名 鉄空租酸居士(佐見屋九代)
七代後藤
磯兵衛忠吉
宝永六年ころから享保一二年ころまで加茂郡佐見村四か村庄屋田口長太郎の五男。領主遠山侯の命により聟養子となり庄屋役を勤む。幼名を林右衛門。享保一二年死亡。
八代後藤
吉右衛門宅矩
享保一三年ころから宝暦一二年ころまで磯兵衛の伜。享保一二年磯兵衛死亡により一八歳で庄屋役を勤める。初め新五兵衛・新兵衛・正(庄)兵衛、さらに清九郎と改め、また吉右衛門と改名。見聞日記を書く。天明三年死亡。法名 宝巌了秋居士
九代後藤
吉右衛門忠宅
宝暦一三年ころから天明四年ころまで幼名を九平。漢法医として胎毒薬を発明し、家伝薬として御世に伝える。蛭川村庄屋林惣兵衛の女を妻にするが明和三年死亡したので、後妻に苗木藩士岩井正助の女カヨを迎える。後年になって文正と改める。寛政五年死亡。法名 楓山宗居士
一〇代後藤
毘古兵衛忠直
天明五年ころから寛政一〇年まで幼名を豊助・彦兵衛ともいう。苗木村阿波屋山下曽七の娘を妻に迎えるが天明元年一七歳で歿したので、後妻に福岡村庄屋安保彌七郎の養女を迎える。寛政一〇年死亡。法名 南窓恵冷居士
一一代後藤
吉右衛門忠幸
寛政一一年から文政九年ころまで毘古兵衛死後、嗣子の松吉が三歳であったので養育後見の役目を勤め、其身一代庄屋役を仰せつかる。妻は蛭川村庄屋林金兵衛の娘、後妻には土岐郡釜戸村庄屋慶助の娘りか。文政一二年歿す。法名 一峰良機居士
一二代後藤
庄兵衛忠国
文政九年ころから嘉永二年ころまで正兵衛とも称す。妻は蛭川村高井源八の娘、後妻には中津川村長瀬兵助二女 いよ。万延元年死亡。法名 雪峰良白居士
一三代後藤
忠左衛門宅知
嘉永三年ころから慶応三年ころまで幼名 才次郎。仰付により(同名あり)文久二年、吉左衛門と称す。七百両の負債のため役目を弟に譲る。妻は大井宿長谷川五左衛門二女やゑ。
一四代後藤
彦兵衛宅郷
慶応三年ころから明治二年まで幼名 庫七(庫七郎)。妻 みきは別家木屋三代目吉右衛門の女。明治になって戸長制が布かれると戸町としてつとめる。
一五代後藤
三郎清彦
明治二年から明治四年まで幼名を富士太郎。加茂郡潮南村柘植幸兵衛の三男、彦兵衛の娘ちくの婿養子となる。養父に代わって庄屋役廃止まで勤める。のち蛭子屋に転居。

 田口新兵衛は、天領となる以前の延宝元年(一六七三)下野村庄屋に就任するが、福岡村・田瀬村との境界ならびに入会地山論争いの解決に積極的に奔走した。しかし、結果的にはいわゆる「新兵衛新四郎事件」として、藩に反抗する者は容捨せずとの決着で、一家死罪という極刑をもって自決に追い込んでしまった。
 また、福岡村庄屋深谷新五兵衛は宝暦七年(一七五六)、年貢上納金借用の廉により庄屋役御免となっているし、宝暦一一年(一七六一)四月あやつり芝居興行御法度につき、福岡村庄屋へ吟味を命ぜられたが、虚偽の報告をしたため、「庄屋遠慮」(自宅謹慎の罰)をうけている。
 このようにして、庄屋は藩から任命された村の行政役人であって、庄屋としての勤務が問われ永い治政の間には、庄屋を命ぜられることを拒んだり、反対に選挙(入札)によって選ばれ藩の審査に適って赴任する例も数多くあった。後期になると村役の権威を保持するため、藩主よりその身一代に限り苗字・帯刀の格式を申し付けられることもおこなわれた。