組頭を与(くみ)頭とも書き年寄ともいった。年寄の名は美濃で、組頭の名は飛騨で多く使われたというが、苗木藩領では組頭が使われ、町内四か村の史料では、与頭と書かれたものがかなり多い。組頭は、持高も多く人柄もよく筆算に長じたものを、村の大小により定数に若干の変化があるが、中期以降福岡村四名、高山村・下野村・田瀬村各二名をおき、庄屋の補佐役としたものである。
組頭も、庄屋と同じように選任・退役に藩の許可を必要としたが、内実は、村方からの願いどおりに許可された。
▲ 恐れ乍ら組頭替の事を願い上げ奉る(読みくだし)
当村組頭又兵衛の儀、病身に付、退役仕り度く願い上げ奉り候、右願いの通り仰せ付けられ下し置かれ候わば、有り難き仕合せに存じ奉り候 以上
文化四丁卯年一二月朔日 福岡村 庄屋
御代官 新田金左衛門 殿
これは、福岡村組頭、五人組頭退役願書[史料編 八八]にある文化四年(一八〇七)に組頭を退役するときの願いである。又兵衛は永年組頭を勤続しているが、病身ではその任に耐えられず庄屋三右衛門が代官に願い出ており、村民の信望も厚かったが、又兵衛の心労を察してその軽減を配慮している。