苗木藩領の長百姓は、おさ百姓おとな百姓とよんでいた。「村方三役」でいう百姓代とは異っていたようである。百姓代は他藩の場合庄屋・組頭等によってなされる村政に対し、農民側の立場を代表してその公正化をはかる職務であるが、苗木藩では百姓代はそれ程重要視されず、庄屋・組頭の二役であったことに特徴がある。天保一二年(一八四一)の「苗木領村方役人名前帳」[県史史料編 近世四]によると、領内総村数四三か村に、庄屋三一名・組頭七五名・長百姓三八名が記載され、長百姓は、福岡村の六名を最高に中之方村五名・神土村四名がこれにつづき、高山村二名・田瀬村二名など、領内一五村に三八名が名を連ねており、越原村など長百姓はいなかった。
▲ 組頭長百姓 市郎兵衛
天保七丙申年十二月、善兵衛跡役申し付け候、天保十亥七月三日、役義実躰に相勤め、其の上養父吉右衛門年来出精致し候に付、其の身一代上下(かみしも)御免[史料編 九〇]
とあるように、高山村の市郎兵衛は、組頭でありながら同時に長百姓の身分をもっていたことから考えて、苗木領の長百姓は百姓代を指す長百姓ではなく、それだけに、庄屋・組頭に対する百姓代表の目付としての機能・性格などは全く持っていなかった。
これら三八名の長百姓の身分成立を、「苗木領村方役人名前帳」から分類すると、事由が記載されている者二五名中、世襲的な者一〇名、家筋である者四名、出精であるという者八名、実躰(じってい)であるという者三名となる。出精とは、藩の御勝手向、御用向出精で、これらの調達に精を出して実績があったことをいい、実躰とは、庄屋・組頭などが村役人として、その役職を誠実・熱心に勤務したことをいい、そのために長百姓を仰せ付かっている。したがって藩が、その出精・実躰に対する褒賞として与えた栄誉であって、その栄誉は子孫にまで譲り伝えられることのできた、いわば、世襲的栄誉であった。