二 五人組

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 五人組といえば、江戸時代からどこの村にも組織されていた五戸一組を原則とする末端の行政組織のように聞こえるけれども、この制度は戦国時代、郷中町内の自衛組織として自然発生的に生まれてきたもので、全国的に普及してきたのは、江戸時代に入って浪人に対する取締り、切支丹禁止令の徹底および貢納確保の上におおいに利用された。五人組頭というと「五人組」の長のように聞こえるが、苗木藩の場合はそうではなくて、いくつかの五人組を集めた組の長のことであった。庄屋・組頭の下に在って現在の各地区をそのまま村庄屋の末端組織に採り入れ、地区の名を着けて何々五人組と呼んだ。この組長がかつての五人組頭であった。従って大きい組では二~三〇戸もあった。文政六年(一八二三)提出の福岡村軒別帳を見ると村内を一一組で編成している。
 ▲野尻五人組(仙治郎組)二三軒
      上切五人組(滝蔵組)一三軒
夏焼五人組(利右衛門組)一四軒
     鷹之巣五人組(皆蔵組)一二軒
    中通五人組(伊八郎組)一六軒
上苗木五人組  (要右衛門組) 一五軒
 田之尻五人組(九兵衛組)一七軒
      八伏五人組(喜助組)二一軒
    樫原五人組(民右衛門組)一〇軒
    広恵寺五人組(今蔵組)五軒
   新田五人組   (亀右衛門組) 一四軒
 本家〆百六拾軒

 ところが、これとは別に、全国的に通用するいわゆる『五人組』の制度があった。どちらも五人組と書くので紛れ易いが、この『五人組』は、江戸幕府が百姓・町人を統制監視する制度として設けた、いわゆる五人(五戸)一組(ひとくみ)の隣保組織である。苗木領ではこれを「組合」と呼び『五人組』とは呼ばなかった。下野村は延享二年より幕府直轄領いわゆる天領となり、天明三年(一七八三)下野村五人組御仕置帳が出されているが、その前置法令の掟に、「一、五人組の儀、町場は家並、在郷は最寄次第の家五軒宛組合せ、子供並びに下人、店借、借地の者に至る迄、悪事を仕らぬ様に組中油断無く詮議せしむべし、若し徒者之れあり、庄屋の申付をも用いず候わば訴うるべき事」と五人組の責任が示され、この五人組帳の各条々は毎年正月・五月・九月・一一月、壱年に四度、村中の大小百姓に読み聞かせ、違背のないように誓わせたものである。慶安の御触書二九条に、「独身の百姓隙入(ひまいり)候か、または煩(わずらい)、田畑仕付(しつけ)かね候時は、五人組惣百姓助けあい、作(つくり)あらし候わぬように仕るべく」と、その相互扶助が定められている。