天保一二年(一八四一)の「苗木領村方役人名前帳」[県史史料編]に記入されている被官の員数は、数的にみてそれ程多いものではない。また弘化三年(一八四六)の「苗木分限帳」[遠山家文書 二五一―四]でも田瀬村一人の被官が含まれ、摘要に「足軽被官」と記載されており、さきに見た信州伊那地方にみえる被官百姓とは性格を異にしていることがわかる。一四人の「被官」が足軽または足軽以下の階層に編成された農民であった。
田瀬村の「御被官」山田伝右衛門は、
▲ 文政四辛巳年二月二日、去年駒乗立身申付候処、自分ニ乗立候黒毛之馬献上ニ付。其身一代帯刀御免。文政九丙戌年十一月、御馬御用出精ニ付長百姓再申付、但御代官御台所ニて申渡ス、文政丁亥十年六月廿八日、同村庄屋後見申付、天保三壬辰年十二月十七日、後見差免……。御馬御用出精ニ付其身一代上下御免、御馬御用出精ニ付、且亦御勝手御用向出精ニ付、足軽被官申付候、苗字ハ山田也、天保己亥十年十二月八日、年来御馬御用改出精ニ付身一代苗字御免
と述べられている。このように被官百姓でない苗木藩の特殊な階層である「御被官」は、藩財政が膨張し窮迫してきた江戸期後半になって、小数ではあるが足軽・中間役の予備軍的な編成をすることにより、財政上の負担軽減をはかったと考えられる。
御被官御免状 山田尚治所蔵