村内秩序の維持と村政運営のためにさまざまのことを規定した村掟(むらおきて)は、すでに中世末期村落共同体の村極(ぎ)めとして全国的にひろがり、入会(いりあい)・用水・神事・集会など各般にわたって、村掟として機能してきた。しかし、この村掟が成文化されていたかどうかはわからない。むしろ文律のきまりとして百姓の間に広くとけこみ、村の結合の役割を果たしてきたと考えられる。
天明九年(一七八九)高山村五人組頭以下八十名が連判を捺して庄屋・与頭へ差出した「村定連判書」[史料編 九六]は、小百姓・水呑まで含めて毎年村役人から申し渡された箇条に対して、「時々申し付けの趣、不埓(らち)なき様相守り申し候。万一これに背く者があれば、越度早速申し上げ候、其の節に至って毛頭御恨みの筋一言も申すまじく」と誓約されている。この連判書では三十二年前、村役人並びに百姓へ発せられた五十三箇条の御条目に応えて村定を規定し、高山村の秩序と統制をはかっている。内容は質素倹約・親孝行・田畑売買禁止・衣類定・農事精励・冠婚葬祭華美取締り・貢納完遂のための連帯性強化など百姓の土地への緊縛や生活上の制限と、確実な貢納が強く意図されたものである。このように村掟も成文として表れてくるようになると、自治的な村掟というよりは、幕府禁令にもとづき領主法が御式目・倹約令として、庄屋・組頭などの村役人から百姓に下達されるようになった。そして毎年、年末または年始の村中寄合、あるいは二月宗門改めの席上で村役人から申し渡され、惣百姓水呑まで含めて請書を差し出すことが強制されたのである。
しかし一方でこの村掟に対し、「惣百姓口上書」をもって村役人にその規制の緩和を願い出ている事実もあった。延享四年(一七四七)「福岡村惣百姓口上書」で、「一御巡見様への諸役の御勘定をして下されたく候、且又村方の諸役については今後石(こく)割(現在の所得割)になされたく候」と出役の不公平を願っており、朱書にて「尤(もっとも)に存じ候」と了承されているが、次の箇条では「一御家中御役人衆様方が、栗本へ御入湯ならせられ候節の御見舞の儀は、村方より薪壱荷ずつ出し申すべく候」と難渋を願っているが、「不尤に候」と受け入れられていない。その他の箇条も多くは「相叶わず候」「此年よりならず」など、村役人の段階では如何とも容易ならず、当時の規制の厳しさの側面を窺わせるものがある。