五 高札場

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 支配者(幕府や藩)が民衆に対し、禁止事項を広く知らせるために高く掲げた板札を高札・制札・禁札などといい、これを街道沿いなどの人目につきやすいところに掲示した場所を高札場・制札場という。高札はとくに戦国時代から行われたが、江戸時代には庶民の間に法令などを周知徹底させるため何れの村にも設けられていた。福岡村では永禄一二年(一五六九)広恵寺に遠山直廉が禁制を下しているのが最も古い。
 ▲   條々      広恵寺(読みくだし)
  一、山林竹木伐取り、牛馬放し飼い不可の事
  一、寺方に背く悪僧、当役為る者成敗有る可く、万一腕力及ばすは此方へ申し付く可き事
  一、寺家門前は諸役以下一切免除の事
     右旨、違背の輩に於いては、罪科に処す可き者也、件の如し
        永禄拾二己巳稔六月 日     直廉
 高札場は江戸時代に入って、高山村では知原の「かじや」(青山次男宅)前の旧道の傍、福岡村は「赤羽根」(西尾達雄宅)の飛騨街道脇、下野村は庚申堂前飛騨街道脇、田瀬村では「保育所」前飛騨街道脇に夫々設けられていた。高札場の敷地面積は一坪(三・三平方メートル)の土地(年貢免除地)に、二本柱の屋根付が建てられ、札の寸法も長さ三尺・巾一尺三寸五分・厚さ一寸と定められていた。

高札 広恵寺禁制〔史料編25〕
(永禄12年) 遠山氏所蔵

 一般に切支丹(きりしたん)・火付(ひつけ)・徒党(ととう)札の三枚が禁制札として、江戸時代を通じてどの村にも常時掲げられている。中津川などの宿場ではこのほかに、伝馬賃銭・人身売買・毒薬などが掲げられていた。
 下野村に残されている切支丹制札は、
 ▲    定 (切支丹札)
  きりしたん宗門は累年御制禁たり。自然不審なる者 これあらば申し出ずべし。御ほうびとして
    ばてれん(宣教師)の訴人                  銀五百枚
    いるまん(ばてれんの次に位する宣教師法兄弟)の訴人     銀三百枚
    立かえり者(一度棄教しながら再び信者になった者)の訴人   同断
    同宿ならびに宗門の訴人                  銀百枚
   右の通り下さるべし。たとい同宿宗門の内足りというとも 申出ずる品により銀五百枚下さるべし。隠しおき 他所よりあらわるるにおいては 其所の名主ならびに五人組頭まで一類ともに罪科に行わるべき者也。
       正徳元年五月 日                                奉行
というものである。徒党札としては明和七年のものが残っている。
 ▲    定 (徒党札)
  一、何事によらずよろしからざる事に、百姓といへ共大勢申しあわせ候を徒党ととなえ 徒党して強いて願い事くわだつるを強訴といい あるいは申しあわせ村方立のき候を逃散と申し 前々より御法度に候条 右類の義これあらば他村居村にかぎらず 早くその筋の役所へ申し出ずべし。御ほうびとして
    ととうの訴人      銀百枚
    ごうその訴人      同断
    ちょうさんの訴人    同断
    右の通り下され その品により帯刀苗字も御免あるべき間 たとい一旦同類になるとも発言いたし候者の名前申し出るにおいては其の科をゆるされ御褒美下さるべし。
  一、右類訴人いたす者なく村方騒ぎ立て候節村内の者を差し押え 徒党に加わらせず 一人もさし出ださざる村方これあらば 村役人にても百姓にても重々とりしずめ候者は御ほうび銀下され 帯刀苗字御免 さしつづきしずめ候者どももこれあらば それぞれ御ほうび下しおかるべき者也。
       明和七年四月                                   奉行
 このように高札によって農民からの密告制度を奨励し、高額の褒美を与えることによって法令を周知させる役割をつとめた。高札場の故意の破損は処罰されている。
 『御制札御書直し新しく成候事』(高山村見聞日記)とあって宝暦四戍十一月十日折れ釘三本づつ相添えお渡し成られ候と、修復が行われている。この制度は一八七三年(明治六)全国一斉に廃止された。