七 御巡見

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 幕府が、地方の政情・民情を視察するため諸国へ派遣した巡察使を、「御巡見」と呼んだ。この制度は、三代将軍家光の寛永一〇年(一六三三)初めて行われ、以後諸国巡見使の分担区域を定めてから、将軍の代替わりごとに、全国に派遣されるのが通例となった。巡見使は旗本三名(使番・小姓組番・書院番各一名)が一組となって、苗木藩は美濃・飛騨・駿河・三河・尾張・遠江・伊勢・志摩・伊賀の九か国を一円とする巡見区域に含まれ、寛文七年(一六六七)・延宝九年(一六八一)・宝永七年(一七一〇)・享保二年(一七一七)・延享三年(一七四六)・宝暦一一年(一七六一)・天明八年(一七八八)・天保九年(一八三八)と巡見を受けた。
 巡見は、諸国に幕府の指令がその通り行われているか、年貢の取り立てはどうか、切支丹の禁令は徹底しているか、など、その国の政治民情を視察したものである。百姓の年貢に対する不満など幕府への訴えは許されていなかったが、この巡見のときばかりは「目安」(訴状)が許された。延宝九年六月苗木領巡見の折には、高山村の庄屋八右衛門・組頭三郎右衛門が連名で目安をさし上げ、そのほか方々から数多く目安を上げたという[濃飛両国通史 下]。しかし、その目安も有名無実となり、やがて禁止されるに及んで、巡見も本来の目的をそれ、ただ幕府の威令を示すだけの儀礼的行事となった。
 巡見経路は、はじめ飛騨から美濃入りしたが、延宝九年五代将軍綱吉の代替わりの巡見から、尾張領加茂郡久田見村から苗木領福地村へと入り、中之方―蛭川―毛呂窪より木曽川を渡り、岩村領巡視ののち、中津川村から再び苗木領に入り、上地村苗木―福岡―田瀬―加子母を経て飛騨へ抜ける順路となった。領内すべての村を巡視するのではなく、行程を一〇〇余人の行列で通過するのであるから、近隣の村々も動員され、道路の整備・宿泊休息等の接待・道中人馬の継ぎ立てなど村をあげての大物入りであった。巡見に当って幕府が示達した公儀触書によれば、道路の修理・橋の架け替え修繕・休宿泊所の畳替え・諸調度の新調修理・酒肴の接待等、すべてにわたってそれらを禁止し、食事は一汁一菜にすると通達しているが、一方藩ではその治政が査察されることでもあるので、これらの禁止はすべて無視して、巡見使接待は鄭重を極めた。巡見使側も公式たてまえとは別にこれらを許容し、あるいは暗に要求する素地のあったことは言うまでもない。「苗木領巡見留書では、天明八年度巡見使を迎える苗木藩の受け容れ手配が、三・四・六・七月と日を追って克明に記載され、支度や接待に上を下への小藩の動きを如実にうかがうことができる。
 幕府御巡見は九回行われているが、最後の天保九年(一八三八)の場合は、閏四月、御使番衆土屋一左衛門(二、〇〇〇石)御小姓番頭設楽甚十郎(二、一五〇石)御書院番衆水野藤次郎(二、〇〇〇石)の旗本三名一組巡見使一行百余人の行列である。これに先立って村方人足が動員されるのは、まず道作りである。しかも行列の三か月も前に道筋以外の領内すべてに割当てられるのである。神土村から延一、〇一六人が出役して丹念に作りあげている。「蛭川村久郷から毛呂窪村境金石まで」が、神土村の分担で「あら道作り」を、閏四月九日の通行前日まで「ならし作り」「きよめ作り」「砂まき」と続き、「惣じて道は中高に作り、道ぐろ(畔)に芝づけ」した幅四尺二寸のりっぱな道が完成したと記録されている。こうした遠方の村々にまで分担区域を割り当てて、領内巡視経路三九九町(約一一・六里)の道作りが行われている。
 道作りと前後して、巡見使一行の中ノ方村宿泊・接待・道中人馬の継立、蛭川村・田瀬村の休息・接待など、諸役務分担の割当・計画・準備が急がれ、一方前回は領内の村役人を、天明八年(一七八八)六月「御巡見為聞合、赤河村庄屋平治福岡村庄屋後見惣右衛門犬山・名古屋え罷越、委細承合罷帰候由…」[同上]、とあって毎回の受け入れが常習化されている。
 巡見後村毎に藩の代官へ通過に伴う模様・御尋ねの様子について、庄屋からの報告書提出が義務づけられていた。延享三年(一七四六)四月二三日巡見使島田庄五郎・中野勘右衛門・瀬名伝右衛門一行が苗木より福岡村へ入り、源右衛門・彦惣・伝六郎の三名が田瀬村まで案内役をつとめている。苗木代官所への報告書のうち御尋ねの様子一部を記することにする。
 ▲       (略)
      中野勘右衛門様え                           御案内 深谷彦惣
  一、日比野村境にて高(石高)は何程」と御直に御尋遊ばされ候間、七百三拾九石九斗七升と申し上げ候。次に「郡は」とお尋遊ばされ候間、恵那郡と御答え申し上げ候。次に「中津川宿泊より福岡村迄道のり何程」と御尋遊ばされ候間、三里余と申し上げ候。「左に相見え候山は」と御尋遊ばされ候間、是は二ツ森と申して、福岡村預り(藩の直轄林)の山にて候と申し上げ候。「福岡村より田瀬村迄道法(のり)何程」と御尋遊ばされ候間、壱里廿八丁と申し上げ候。福岡森の前にて「この森は何と申すや」と御尋遊ばされ候間、牛頭天王之森と御答え申し上げ候。次に「当地は暖国なりや」と御尋遊ばされ候間、あまり暖国にても御座無くと申し上げ候。又まんばだいらにて「右に相見え候山は」と御尋ね御座候間、木曽山にて信濃国之内にて候と申し上げ候。「飛州境は」と御尋遊ばされ候間、加子母村之内、小郷と申す所にて候と申し上げ候
       (略)
         延享三丙寅年五月六日                  福岡村庄屋 三郎右衛門印
                                     同村 組頭 藤兵衛印
                                     同断 伴右衛門印
                                     同断 伊右衛門印
                                     同断 与兵衛印
       五ヶ代官 藤田仲右衛門 様
 かくて、巡見は幕府の威のもと、巡見使や属僚たちをもてなす儀礼的行事と化し、農民たちに重い負担を強いる結果となって、政情・民情視察の巡見使本来の使命はしだいに失われていった。