おなじ百姓のなかにも家柄の序列があった。鎮守の祭典のときなどの役割や行列順位、村寄合の席順なども暗黙のうちに決まっていた。なお、一般の百姓の苗字使用や上下着用は、藩主から特別に許された者以外用いることが出来なかった。一家のうちでも、主人と家族は主従の関係にあった。そして子どもたちのなかでは、家を継ぐ総領息子だけが大切にされて、二男、三男は「厄介(やっかい)」と呼ばれ従僕並みに取扱われた。このように農民の身分は、屋敷・田畑等の土地を持つ本高百姓(本百姓)と、土地を所有しない無高百姓(通称水呑百姓)とに大別されており、無高百姓のなかにも脇屋・作人・水呑の区別があって本百姓に従属していたことは、武士間の身分格式がそのまま百姓たちの間にまで及んで、社会秩序が形づけられていたことを物語っている。
これら農村社会を構成する本百姓以下の各階層は、「家株(いえかぶ)」という権利として固定化され、またその数にも制限が加えられていた。左表の文久元年(一八六一)福岡村差出明細帳は、農民の家株制度を示したもので、苗木藩による固定化された組織の中では、農民自身の権利と利益を守るための自衛的手段であったと考えられる。右の本家に当たるものが、検地帳で田畑をもつことを認められ、それを耕作して年貢を納め、さらに労役賦役も一人前に負担した本百姓である。
福岡村差出明細帳
家株の数を制限することは、江戸幕府初期の寛永二〇年(一六四三)「田畑永代売買禁止令」によって農地の細分化を防ぎ、家株の増加を抑制する措置であった。苗木藩においても宝暦七年(一七五七)三月の「御領分村役人並百姓え申渡条々」五九か条の中に、田地欠売りと、分け地の規定は、小農自立の抑制条目として注目される。すなわち、
▲ 田地欠売り、分ヶ地(分家)仕り候ては、少田に相成り、地主は相増し候に付いて、後年に至り一家相続きがたく罷り成り候条、自今以後両条之願い一切停止申し付候事
とあって、これ以後の土地所有関係の異動を全面的に禁止している。
江戸期も後期になると、農民の生活は苦しく借金などのために貢租の上納が不可能となり、代官に願って田畑の売買が行われるようになる。当地方に現在残っている古文書の大半が借用証文と、田畑売渡証文によって証明される。この文言には「私儀上納に差詰り…」の申し訳が書かれ、村役人および五人組頭が請(うけ)人(証人)として差し出されることと、田畑とともに家株が記載される場合が普通である。但し家株数は所有者名のみ変わるが、株数の増減はしない。
○「永代売渡申す田地・家株・家屋敷の事」(天保八丁酉年)
○家株増加の場合「奉願上候、新田並家株之事」(享保五庚子年)
○無高者調査「高山村無高者書上げ帳」(宝暦九己卯年)
○水呑、家株の場合「奉願上候、水呑家株願書」(安政三丙辰年)