宗門改人別帳

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寛永一四年(一六三七)一〇月島原の乱が起きると、幕府は「五人組いよいよ心いれ改め……在々所々に無頼(ぶらい)の者なきよう、不審なもの、あやげなるものあらば、たとい親戚たりとも、すみやかに庄屋、五人組まで申し出る」よう、一〇か条にわたる法度を出している。鎖国令を出す一方、寛永一七年(一六四〇)幕府直轄領に宗門改役(あらためやく)を置き、切支丹かそうでないかを調べることにし、寺請(てらうけ)・宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)の制度を作り、寛文四年(一六六四)にはこれを全国諸藩にまで及ぼした。このため、村々では切支丹でないことの証明を必ずどこかの寺院の壇家としてうけ、寺ではその宗旨を保証することにした。この「宗門改め」は村ごとに行い、村からは檀那寺奥書のある「宗門御改請状」を領主に提出した。
 天明四年(一七八四)田瀬村から提出された御請状[史料編 一二三]は次のようである。他の三か村とも同形式の請状であり、史料編を参照されたい。
 ▲    差し上げ候一札之事(読みくだし)
  一、御制禁のきりしたん宗門並びにその類族の者、当村中に壱人も御座なく候、村中の者どもいずれも禅宗、苗木雲林寺の檀那にて御座候事
  一、当村中、男女毎年あい改め、壱人も残らず帳面にあい記し、面々檀那寺請負いの証文取り置き候、その上毎月人数増減相改め申す可く候 もし不審なるものあれば早速申し上ぐべく候事
     附(つけたり) 御追放の者御赦面仰せ出されず候うちは、暫も留めおき間敷く候事
  一、他所より縁組並びに養子或いは家来或いは脇の者など召し抱え候とも、宗門堅く吟味し、檀那寺請状取り召し抱え申す可き事 御法度の宗門類族の儀は申すに及ばす、たしかなる檀那寺これなき者は、しばらくも抱え置き申す間敷候事
  一、他所より医師・針立・禰宜・山伏・坊主・手習教え等いたし往来仕り候者、諸浪人一切留め置き申さず候、もし抱え置き申す儀御座候わば宗門詮議の上、御断り申し上げ候事
  一、諸職人商人等、村へ入り申すとも、念入り吟味の上にて出入り致させ申すべく候、乞食・非人などに至るまで他所の者は逗留いたさせ申しまじく候、たとい御領内のものたりというとも、不審なるものはそこへ付け届かせ詮索仕るべく候事
     附(つけたり) 面々宗旨ひそかに替え申すまじく候、よんどころなく子細有るにおいて宗門替え候は御断り申し上ぐべく候事
   右の条々少も違背仕り間敷く候 もし当村中に公儀御法度宗門の者有り、他所より顕(あらわ)れ候は庄屋・組頭・五人組迄曲事(くせごと)に仰せ付けらるべく候、後日のため仍(よ)って件(くだん)の如し
                                    苗木雲林寺旦那 与左衛門印
                                        (以下七〇人…略)
      天明四甲辰年二月十日
 この「宗門改め」によって作られた帳面が「宗門改人別帳」で、一般に宗門帳と呼ばれ、文化一四年(一八一七)福岡村庄屋役所引渡帳の中では「宗門人数御改帳」となっている。内容の記載様式は元禄期(一七〇〇)のものと変らず、一軒ごとに年齢・続柄・人名を連記し、一村合計を高山村の嘉永五年でみると「惣家数百九軒、惣人数合五百七拾五人、内[男 弐百九拾壱人 女 弐百八拾壱人]」と記載し、最後に檀那寺巌松寺の奥書を載せている。また同時に、宗門帳に捺(お)される各戸主の印形(いんぎょう)だけをあつめた「宗門御改判鑑帳」を作製している。すなわち現在の戸籍簿と印鑑登録簿を、毎年二月定期的に更新したわけである。

宗門月改帳 高山区所蔵