寺請(てらうけ)と地請(じうけ)

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住民の宗旨を調べて、切支丹でない旨の請状(うけじょう)が記されたものが宗門帳であったが、その後、村民の旅行・縁組・奉公など生活の各般にわたって欠くことのできぬものとなり、継続されて明治維新後「壬申(じんしん)戸籍」に承け継がれ、現今の戸籍になる。
 このように、住居地に縛りつけられて行動・移動の自由を持たなかった村人が、村を離れる場合には、檀那寺と村役人から身元保証書をもらわねばならなかった。この時、寺で発行される保証書を「寺請証文」といい、村役人から発行される保証書を「地請証文」という。寺請証文は『この者は当寺院の檀那であって、決して御禁制の切支丹ではありません』という身元保証書であるが、同時に、「貴寺旦那に加えて下さるべく」と、相手の転入村の檀那寺へ宛てた。これを「宗門送り状」ともいう。[史料編 一四二・一四五]

寺請証文 高山区所蔵

 また地請証文は、縁組・奉公など身柄の異動を伴うときに、転出村の庄屋から転入村の庄屋へ出された。それには、宗旨・年齢・所属(村・組・五人組)・続柄・理由等が記載されており、いまの用語でいえば、戸籍抄本と転出証明書を兼ね備えていた。[史料編 一二八・一三〇・一三六]江戸時代後期には「宗門歳附送り書」[転出村方][史料編 一四一]・「宗門歳附(としつき)請取書」[転入村方]と呼ばれる地請証文を取り交わした。
 ▲     宗門歳附請取書   当村五人組頭伝右衛門組下平蔵養女
    一、禅宗    七歳   ちう
   右は其御村 松五郎組下、八百助娘に養女願い相済まし、今般歳附並びに寺手形共送り遣わされ、慥(たしか)に請取り、此の方増人に書き加え、以後支配仕るべく候、御村方減人に成され候、その為歳附請取書 仍て件の如し
      安政六己未年正月                         福岡村庄屋 大野喜左衛門印
        田瀬村庄屋 丹羽五兵衛 様
 右は、田瀬村から送られてきた八百助の娘(ちう)の養女願いと宗門手形の歳附送書に対し、福岡村から返した宗門歳附請取書である。この年の正月分として領村間の増員、減員分が互いに確認し合われた「戸籍簿の転入通知書」といえよう。

地請証文 高山区所蔵