御用金

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江戸後期の明和・安永の頃になると、全国的に村の構造変化が起って、御領下野村でも藩領の伝統的な村々は深刻な社会変質を余儀なくされてくる。特に苦しくなった藩財政を維持するには、貢租労役のほかに臨時的に借上金や強制献金を賦課してくる。借上金は領内の富裕な商人や百姓から借り上げていたが、次第に江戸・名古屋・中津川の大商人からも借用されるようになり、原則としては期限を定め、利子を付けて返済された。領内からの借上も、当初は返済されていたが、次第に実行困難となり、幕末になると領外の大商人らの借上金利息のやりくりにも事欠くようになり、その結果領内からの献金に頼るようになった。
 この献金を御用金と呼んで、領民や村に強制的に賦課された。御用金は本来藩の財政難が直接の理由であるが、臨時・不定期のもので、貢祖では藩財政の窮乏を救うことができないのであって、当時の租税体系の破綻が根本原因である。百姓からは石高に課した本年貢・小物成などに至るまで課しているのに、酒屋・商人などは、冥加・運上といった雑税のみであった。藩では富裕領民から御用金によってその利益を得ようとし、一方富裕となった領民は「安穏に暮せますのは冥加の至り」と献金をしたのであった。幕末の租税制度をふくむ経済の行き詰まりを、藩財政の建て直しの策とした。
 苗木藩の御用金が、いつごろから始まったのか判然とはしないが、五代藩主友由が正徳三年(一七一八)大坂加番の勤役に際し、「金子大分御用に候間、随分相調え下さるべく候」と江戸からの早飛脚が飛んでくる始末で、一万石の小藩にとっては過重な負担であり、東白川村誌によると、享保四年(一七一九)の初見とある。それによると同年二月大坂加番入用として、「何様になされ候ても右の金子調え申さず候ては、締りべからざる御儀……」とて代官の触状が村内に残されている。安永七年(一七七八)福岡村宇右衛門・弥七郎、亀山平兵衛は三〇〇両を上納している。これより五年前に飛騨大原騒動に際し苗木・岩村両藩も出兵している為、藩財政いよいよ窮乏して御用金を課したと考えられる。
 苗木藩の財政が逼迫するのは既に享保期以後のことで、家臣団に対する知行高を削って節約につとめるが、借金に借金を重ねる様相を深め、しだいに領内への御用金に依存するようになった。始めは領内の酒屋・村役人など村方上層部に対して、上下(かみしも)・苗字・帯刀などの三格を免許して御用金納入の奨励策をとった。福岡村酒屋の安保正盈は享保三年には三格ならびに扶持方十口を受け、ますます安保家は幕末まで富裕商人として成長していく。[史料編 二五九]
 しかし、苗木藩における特定の富農や御用商人などに課していく御用金献納方式では限度があり、村方一般百姓へも石高に応じ御用金を割賦しなければ藩財政破綻を救うことができない。元治元年(一八六四)高山村御仕法金請取通は、打続く凶作・飢饉にもかかわらず、高山村では百六拾両三分弐朱を三月から一二月まで割賦により上納し受取った通い帳である。このように、一般領民にまで御用金が賦課され、その金額も多くなれば、藩も村方もやむなく支出に応ずるようになった。慶応四年(一八六八)領内御用金割賦元帳[史料編 二六二]でみると、この年苗木藩「御仕法」の一環として、借財総金額一二万七六三一両余の約三分の一、金四万四二八〇両余を、
 ▲ 右御領分村々家数・石割・景気、本並御用達、御用弁え御割付ニ相成候事
として、領内村々へ御用金を割り当てたのである。景気割りとは、個別に財政状態に応じて、暮らし向の好し悪しを基準に評価する方法である。福岡村御用金上納高書上覚[史料編 二六三]では、金一五四九両一朱と銀三匁一分九厘を一三七戸で仕法立てしている。尚別に御用達連中へ三〇〇両割り当て外の献金があり、たびたびの御用金下命は厖大な額にのぼって、福岡村のみに限らず、幕末維新に村々は疲弊の極に達していく。

福岡村御仕法金請取通し
新田 長瀬規男蔵