前に出ているように、藩に出入りを許され、御勝手向き御用に応じて商品を納めたり、金銭の調達などを周旋した者を御用達とよんだ。安永七年(一七七八)福岡村安保弥七郎は御用達を仰せつけられて、士分に取り立てられ領内一三人の御用達を招集して領内における指導的役割りを果すまでになった。[史料編 九〇]
▲ 文化元子年、養父、安保弥七郎へ苗字帯刀御免の節、岩蔵え上下御免、文化三寅年一二月三日苗字帯刀御免、同四丁卯年四月二九日、五人扶持下され、同一四丁丑年四月一八日御役所御支配仰せ付けられ、御用人支配申し渡し候。福岡村庄屋・与頭・五人組百姓代立ち合い、御代官植松清作詰め合い口達。文政八乙酉年二月一八日、年来御用向出精に付き、御紋付上下下さる。天保七丙申年六月二九日、願いに依り御用達を御免。
この後も安保謙治の明治維新期に至るまで、安保家は苗木藩屈指の富豪で、幕末の藩財政窮乏を補う。このような御用達は領内各村々においてその数が増加し、「並御用達」まで加わるようになってくる。ちなみに御用達を分類してみると、御用弁・本御用達・並御用達に分かれ、その下に、さらに御用達並(なみ)というものまであった。